ちば環境情報センター > ニュースレター目次>ニュースレター第130号
目 次
|
千葉市緑区 小田 信治
いよいよ、カエルの季節になってきました。さて、今年は「ねずみ年」ですが、実は「カエル年」でもあるのですがご存知ですか?
世界の動物園等が加盟する「世界動物園水族館協会」という団体が中心となって2008年を「国際カエル年」と定め、世界的にキャンペーンが展開されています。「国際カエル年」とは、両生類を絶滅の危機から救おうと、2006年、国際自然保護連合(IUCN)や世界動物園水族館協会(WAZA)が中心となり、「両生類の箱舟」(Amphibian Ark)プロジェクトが発足しました。この「両生類の箱舟」プロジェクトが2008年に推進する世界的キャンペーン「国際カエル年」です。BBCの自然ドキュメンタリー番組で世界的に有名なプロデューサーであるデビッド・アッテンボローが代表支援者になっています。
ちなみに「 2008 year of the frog」という用語で、インターネット(Google)で検索してみると、 実に300万件ほどのホームページがヒットします。日本では日本動物園水族館協会が事務局となって、2008年に全国の動物園や水族館で様々なイベントが開催され、上野動物園等の都立動物園では、イベント「東京でカエルを見かけたヨ!」(平成20年2月29日〜11月6日)を行い、カエルの目撃情報を集めています。その他、動物園ごとにカエルイベントが行われるようです。詳細はTOKYO ZOO NETをご覧下さい。さらに、国際カエル年について詳しく知りたい方は、日本動物園水族館協会のHP内にある資料をご覧ください。
こうした動きの背景にあるのは、今カエルが世界的に激減しているという事実です。カエルは、生息地の破壊や悪化、地球温暖化の影響などのほか、最近ではツボカビ病という病気が蔓延して、ものすごい勢いで数が減っているのです。近い将来、世界の両生類の3分の1から半分が絶滅してしまうのではないかとの予測もあり、生態系に与える影響は図り知れません。日本でも2007年6月に麻布大の研究チームにより、野生のウシガエルにツボカビの感染が確認されています。まだ、日本産カエルの感染は確認されていないようですが、下大和田のカエルも見守っていきたいと思います。
さて、怖い話になりましたが、十二支は国によって若干異なるようです。タイでは「子」「丑」「寅」の次はなんと「猫」!。ベトナムでは「子」「水牛」「寅」「猫」。。。世界の十二支に興味がある方は以下のホームページをご覧ください。ちなみにカエルは十二支にはありません。
TOKYO ZOO NET http://www.tokyo-zoo.net/index.html
十二支情報サイト: http://www.eto12.com/junishi03.html
2000年2月20日から始まった、千葉市緑区下大和田谷津田の観察会とゴミ拾い(ちば環境情報センター,ちば・谷津田フォーラム共催)が、2008年5月4日で100回を迎えました。
毎月第一日曜に実施し、時に大雨や雪の降るような日もありましたが、この間1回も休むことなく開催できたのも、谷津田の自然と生きものを保全していきたいという、たくさんの方たちのおかげと感謝しております。200回,300回とこれからも続けていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。 (ちば環境情報センター事務局)
千葉市稲毛区 石橋 紘吉
わが故郷は筑後平野の真中に位置している。南に耳納連山、北に背振の山を見ることができ、2qほど先には筑紫次郎が流れている田園地帯である。
そのわが家の前には、川幅が10m足らずの農業用水路がある。5月の田植え前に水が用水路を流れ始め、秋の収穫時期の前に水が落とされる。10月から翌年の5月までは川底に少しの水が溜まっている程度になるが、小鮒などが泳いでいた。この農業用水路がわれら子供等の格好の遊び場であった。水浴びに魚採りにいそしんだ。
夏になれば、朝は日が昇り8時には泳ぎ始め、夕方まで何度も泳ぎ、疲れれば岸辺で甲羅干しをしていた。この用水路の川岸は、石垣や木の杭を打ち真竹を横に渡して土止めをしたもので、魚などの生き物にとって棲み易い環境であった。水は決して綺麗ではなかった、むしろ汚い方で生活排水も流れ混んでいた。
初夏にはホタルが飛び交い、川面にはメダカ、アメンボウ、水中にはゲンゴロウがいて、水面上をトンボが飛び、時々卵を産み落としていた。
この用水路には川入れ場と呼ばれる所があり、馬などを水浴びさせるため傾斜した川への入口があった。この用水路は水が流れると、小型の鯉,鮒,鯰,ハヤ...が棲息し魚影も濃かった。これらの魚を取るのが、わが子供等の楽しい遊びであったし、当時の田舎での蛋白質の補給源でもあった。
1.流し釣り
これは、一般に行われている釣りである。浮きを付けて流れに沿って、餌を付けた釣り糸を垂らす方法である。
餌はミミズ、蜂の幼虫、さば虫、くり虫を使った。くり虫は高価なもので一度くらいしか使わなかった。蜂の子は足長蜂の巣を蜂に刺されないように横取りしてきた。多くは屋根に登って採り、時には刺されもした。さば虫はお猪口一杯10円程度であったが、自家製とした。鯖の頭を軒下に吊るしておくと、蝿が卵を産みつけそれが孵化し蝿の幼虫が生まれる。これがさば虫である。いわゆる蝿の幼虫である。竹筒でさば虫入れを作ったりした。
この流し釣りではハヤ,小鮒が釣れた。魚を呼び集めるために、撒き餌をまいた。撒き餌は酒かす,米ぬか,土などを混ぜ合わせ中心に重りようの石を入れ、5cmくらいの饅頭型を作った。流し釣りではないが、クリークなどで大型の鮒などを狙う場合は、釣り糸も丈夫なものとし、釣り針も大きめのものとし、餌は縞ミミズを使った。
2.投げ釣り
5m程の長さの竿に大き目の重りをつけた釣り糸の簡単な仕掛けで、主に川底近くにいる魚を狙う。鮒,鯉,ナマズなどよく釣れた。用水路の護岸近くの流れに沿って、数本の竿を仕掛けておく。魚がかかると竿の先がしなるのでわかる。雨が降ろうが半日くらい楽しんだ。成果は大魚が多かった。
3.仕掛け釣り
真竹を割って1mほどの長さの竿をつくり、先の方はしなるように加工した。1m程度のタコ糸に大きな仕掛け針を着けた簡単な釣具である。餌は小さなカエル,大きなミミズ,タニシなどで、クリークなどの土手に釣りざおを深く突き刺し、魚がかかったとき持っていかれないようにした。
狙うは、大型のウナギ,ナマズ,ライギョである。夕方仕掛けておいて、翌朝回収にいった。20本程度仕掛けたりしたが、成果はすくなかった。たまに糸が切られていることもあった。
4.川エビ釣り
これも独特の仕掛けである。細い1m長さの竹竿に、川エビ用の釣り針を1m程度の長さの釣り糸につける。重りは軽くしてエビが掛かる感触を楽しんだ。川エビの釣り針は独特の形状をしており、餌はミミズを使った。
川エビは用水路にはいなくて、近くの太刀洗川や筑後川の護岸の石組みの所に多く棲息していた。釣りの成果は多い時は100匹を越した。竿は数本用意し、順次引き上げてまわる方法である。上げるタイミングがあり、掛かっても時間がたつと逃げられてしまう。川エビは美味で、わが家の食卓を飾ったものである。
5.素もぐり採り
魚は岸辺の石垣や杭の隙間に多く棲息している。川にもぐり素手で魚を捕まえるものである。成果は多くなかったが、楽しい遊びであった。
話は替わるが、筑後川には「鯉採りマーシャン」と呼ばれる人がいて、寒い冬の時期、川の深い淀みにじっとしている鯉を潜り、人肌の温かさに寄ってくる鯉を抱きかかえて採る。実際には見たことはないが有名であった。今はどうかな?
6.魔法受け
タコ糸で50cm径の円筒状の網を作り、入口を狭めて一度入れば出られなくしたもので、3個の竹の輪で形状をたもっていた。網の前後の水深より長い竹竿をつけ、川底に刺して固定する。魚は岸辺近くの川底を下流から上流に向かって泳ぐ習性があり、魚が通りそうな所を選んで仕掛けた。柳の木下などが絶好の仕掛け場所であった。夕方仕掛けておいた、翌朝引き上げに行くのである。成果は上々であった。
中学生の頃、網の編み方を習い、自分で作ったりした。編む道具も自分で作った。漁師さんが網の繕いをしている姿をみると、網を編んだ頃を思い出す。網目は2cm角ほどで大型の鯉,鮒,なまず,ライギョが掛かったものである。
7.追い込み魚
半円状の木の枠に袋状の目の小さい網を張りつけた「タビ」と呼ばれる道具を使う。小さい時この「タビ」が欲しかったが、なかなか買ってもらえなかった。小学生の高学年の頃やっと買ってもらった。今では網はナイロンなどの化学繊維で作られているが、当時は木綿糸か麻などで、長く使っているといたんでぼろぼろになる。それで柿渋の液に浸して繊維を強くした。
幅50〜60cmの用水路に「タビ」をセットし上流から追い込んでくるのである。一網打尽に採ってしまう。効率は良いが誰よりも早く行って採るのがコツであった。人が採った後はほとんどだめであった。また、川幅が1〜2mのような水路では「タビ」を使い岸辺の草むらをかき混ぜて魚を採った。
8.川干し
用水路の水が落とされると、あちこちに魚が取り残される。これを狙って、水路を仕切り水をかき出して一網打尽にする。泥まみれでかなりの労力を要した。時には見物人もいた。
9.泥鰌とり
用水路の小さな流れで、雨が降ると泥鰌が流れに逆らって泳いできた。これを先ほどの「タビ」で掬い取った。また、用水路の水が落とされて水がなくなると、泥の中に泥鰌がいて、泥を掘り起こして取ったものである。バケツ半分ぐらいの成果はあった。
10.その他
麦が刈り終わり、田植え前の頃、よく洪水が起き田んぼが冠水した。すると魚が田んぼへ上がってくる。夜、松明を点け、灯りに誘われて魚が近づくのをモリでついて採る。なんと呼んでいたか忘れたが、成果はあまりなかった。
このように色々な方法で魚採りをしたものだった。魚採りも中学2年くらいまでで、3年になると受験勉強に、高校には入れば部活にと忙しく魚を採ることもしなくなった。
それよりも環境が大きく変わっていったことである。昭和28年の九州大洪水を境に様子も一変した。また、田畑は除草剤,農薬が大量に使われだし、川での水泳は禁止となり、川の生き物も死んでしまった。更に、わが故郷は肝臓ジストマ虫の棲息地で有名な地域であった。このジストマに犯され人は多く地域の数十パーセントに及び、そのため他の地域に比べ体格も劣っていた。中には亡くなった人もいた。自分も中学3年の時、治療を受けた。
このジストマを撲滅するために用水路も整備され、護岸はコンクリート化されていった。当然、生き物の環境は変わり、土中の生き物は居なくなった。ホタルの幼虫,ヤゴ...。更には、水が流れてもメダカ,アメンボウなども見られなくなり、肌の弱いドジョウ,ナマズ,ウナギな どがまず居なくなった。田んぼにはカエルも、カエルを捕食していた蛇も見かけられなくなった。
稲作も牛馬の力から耕運機,田植機,稲刈機,脱穀機・・・、小型から大型へ、堆肥から化学肥料へ、害虫駆除に農薬が・・・DDTに始まり強力なパラチオン・・・農薬が撒かれると赤い布の目印が立てられ、田んぼの側を通ることも躊躇された。
衛生面や労力面では大幅に改善されたが、同時に自然は失われていった。各学校にはプールが造られ、また、流通も盛んになり、川魚に頼っていた食生活も変わっていったというより、変わらざるを得なかった。
祖父の時代は、家に川舟を持ち、投網もあり、川魚を調理する道具も揃っていた。ウナギをさばく道具,川魚を焼くコンロ,干す道具など・・・
自分は小さい時、祖母に連れられ川魚を商いとしている家へウナギや鯉を買いに行ったことを覚えている。ウナギの捌きも鯉の捌きも見様見真似で覚えたもので、今役に立っている。
このような思い出も自分の世代で終わりで、一回りはなれた弟の時代はプールの時代である。
故郷に帰る度に田舎も年々様変わりしており、洪水の常習地帯は埋め立てられ宅地化・工業団地化されている。治水事業が発達した今でも、あの昭和28年のような大雨になればあの惨事は再び起こるような気がする。
農家は高齢化が進み、子供の姿はほとんど見られなくなり、稲作も管理会社化が進んで委託栽培化してると聞いている。あの穀倉地帯が無くならない事をせつに願っている。
新米主婦のえこ日誌 I
山武郡大網白里町 中村 真紀 |
発送お手伝いのお願いニュースレター6月号(第131号)の発送を 6月 6日(金)10時から事務所にておこないます。 |
編集後記:今年のゴールデンウィーク、予報では晴天が続くということでしたが、ふたを開けてみれば、曇り空や雨の日が多く、恨めしく空を見上げたこともありました。でも、雨が降れば、普段あまり姿を見せない大型のカタツムリに会えるなど、楽しいこともあります。いつでも自然は正直ですね。 mud-skipper