ちば環境情報センター > ニュースレター目次>ニュースレター第168号
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千葉市緑区 稲富 直彦
まさか、ママさん方の日常会話にシーベルトとか、ベクレルとか、セシウムなどという言葉が飛び交う日が訪れることになるとは、想像もしていませんでした!。。。と驚く私、海洋の環境放射能調査に従事して18年、海のお富と申します。
当方が永く眺めてきた海では、かつてロシア、アメリカが盛んに実施していた大気圏核実験由来の人工放射性核種が未だに日本周辺海域を含め太平洋中に浮遊していて、それが日本中の魚にも検出されておりました。もちろん、人の健康に被害を及ぼすレベルへは遠く及ばない微量な値なので、これを知らない人がほとんどでしょう。言い換えれば、高い検出感度で観れば、放射能汚染はすでに地球全体に広がっているのでした。
海洋中の放射能レベルは、チェルノブイリのアクシデント直後、一時的な上昇はあったものの、年々減少し、それに同調するように、社会的な関心も減少。。。私たちは人知れず、細々と調査を継続している雰囲気だったのです。
ところが!東日本大震災のダメージで福島原発の炉心からあっけなくヨウソ-131やセシウム-137が飛び出してしまいました。「あぁ!どうしましょう!?」と騒然としていることは皆さんも身の回りにご覧の通りですね。
さて、以下では、私がYPPの活動に参加する中で放射能騒動に遭い、自らが海を眺めてきたような観点から、仲間に(今流に言えば)「つぶやいて」来た言葉のいくつかをリメイクして紹介したいと思います。
●事故後何が起こったか?
(千葉県下は通常値から3割の底上げに)
身の回りの噂、メディアの情報が錯綜するなか、全国のモニタリングポストは淡々と貴重な証言者となっています。原発から1km付近での値は、3月12日~16日にかけて起こったアクシデント毎に跳ね上がって、16日正午には通常値の10万倍以上を記録しています。その後の推移も含めて観るところ、放射性物質の大気への放出は3月16日以降、目立ったものは無い様です(図1上段)。千葉県ではどうでしょう?市原市にあるモニタリングポストでは、原発のアクシデントの数日後に、風が運んで来たとみられる影響(通常値の9倍程度)をキャッチしましたが、スムーズに抜けていった様です(すぐに下がった)。一方、3月20日から24日にかけては、千葉県下に降雨があって、空高く浮遊していた放射性核種が地面に落ち着いてしまったものと思われます。3月21日に通常値の3倍程度に跳ね上がってからは緩やかな漸減傾向となって、7月1日現在、通常値の3割増し程度のレベルで推移しています(図1、下段)。ただ、増えた分は一般に浴び続けても大丈夫とされる目安の一つ(1mSv/年、以下では「許容レベル」と言います)の1割以下という低いレベルであるから幸いであったと思います。
●放射線は怖いか?(握手すると被曝する?!)
多くの方がご存じの通り、人間(60kg)の体には通常、自然由来の放射能がざっと7000ベクレル(カリウム40の他、炭素14など)含まれています。その他、大気や宇宙、食物からの内外被曝量を合わせて、日本人は自然に年間2.2ミリシーベルト(日本分析センター調べ)程度の被曝があると見積もられています。先の底上げ分は、たかだかこの1/20以下ですが、多くの方々は底上げ分の健康影響への不安をぬぐえない様です。その要因を大別すると2つ程ありそうです。
●不安その1、少しでも怖いのか?(発がん!それは容疑者多数事件!)
我々が直面している微量の放射線被曝(すぐに影響が出ないレベル以下では低線量被曝と呼びます)のリスクの考え方から来る不安です。実は、学者連中でも解釈が分かれる分野なのですね。
両極端を拾えば「微量ならばむしろ体に良い」という説から「微量でもとっても怖い(発がんリスクが上がる)」まで、あまりに幅があります。これでは混乱しますね。。。何れの説もチェルノブイリ事故や広島・長崎原爆以降の追跡調査を重視していますが、被曝影響だけを分離することは困難なため「決定的といえる証拠は無い」のです。でも、曖昧では放射線防護上不都合なので、明白な影響が認められる高いレベル(250mSvを超える値)から被曝量0の間で徐々にリスクが減少する解釈が採用されているのです。つまり解釈上、「ほんの少しでも被曝すればリスクが上がる」となるわけです(先の許容レベルもこのような解釈の上定められています)。が。。。先の放射能底上げ程度に相当する発がんリスクは、身の回りに存在する様々な発がんの容疑者の怖さ(リスク)にずぶずぶと埋もれ、まったく目立たない存在となってしまうのが実情なのです。(後編へ続く)
編集部より:放射能の影響に関しては、さまざまな見解があると思います。ぜひ皆様のご意見をお寄せください。
千葉市稲毛区 春山 秀司
4月30日から3日間は周辺の漁村三か所に分かれての作業をするとのことで、私たちは、小網倉という小さな漁村での作業で、地元の漁師さん10人ぐらいと、日本財団の学生ボランティア、RQ(市民災害救護センター)などの80人ぐらいで周辺に散らばっているカキの養殖ブイ、アナゴ漁具の筒、プラスチック製の桶、バケツ、大きな水槽などを集めて高台に運びました。
写真や思い出の品なども丁寧に集め、拾った場所を書いて届ける作業もしました。車の入れるところではトラックでピストン輸送をし、車の入れない山間部はみんなが一列に並び、バケツリレー方式で運びました。小さな水路が海に流れている山間部では海抜20~30mぐらいの高さまで漁具が流れ着いていました。漁師さんはまた津波が来ると考えていて、ドラム缶程ある大きなブイを散らばっているロープを使ってつなぎあわせていました。
漁師さんのロープワークはいつ見ても見事なものです。その漁村では見える限り住める状態の家は無く、唯一、一階部分の柱を残してかろうじて立っている家は数年前に耐震補強をして建てたばかりの家だと聞きました。
その話を教えてくれた漁師さんも家も船も流されてしまったので、これから巨額の借金をして、一からやり直さなければならないが、息子さんは漁師をやめて町で働くとの事で「家族を養うためにはしょうがないんだよ・・・」と悲しげに話していました。
ただ最後に「俺の生きてるうちに復旧して、それを息子が継げばいいよ」と明るく話してくれたので救いがありました。そのエリアでもまだ行方不明の方が多いので、毎日自衛隊のヘリやジープでの捜索活動を見かけました。自衛隊の方々は道を譲ると大きく頭をさげ、質問をすると丁寧に答えてくれました。その献身的な姿には頭が下がりました。
電気復旧の作業も見かけましたが、あっという間に電柱を立てて、電線を引いていくのを見て、電気の復旧が一番早いというのは、こういうこと何だと実感しました。
漁師の皆さんも、毎日の作業後には一列にならんで、帰っていくボランティアに深々と頭をさげて感謝してくれました。前に出てきた漁師さんも3年もしたら、旨いカキを食わすからまたおいでと言ってくれたので、本当に来てよかったとおもいました。
大規模な漁具回収は学生ボランティアが帰る日に合わせて2日で終了となりました。3日は市内千石町の町内会長の依頼を受け4人で地元の小さな神社の片付けに行きました。
旧北上川が近く、町内会長さんの話では、「昔は貿易の盛んなところだったので酒蔵や酒屋が多くて、ウチも酒屋なんだよ」「今は郊外型のショッピングセンターやその周辺の新しい町が栄えてしまって、この辺りは高齢化で片付けできないんだよ」と聞きました。
市内でも少し高台のところなので絶対津波は来ないと言われていて、もしここまできたら石巻は全滅だと昔から言われていた地域だそうです。
その神社は縄張神社という由緒あるで、毎年川開きの日にはお祭りがあるとの事でした。おもな作業は、ヘドロを土嚢袋に入れて、20mぐらい先の大通りまで運ぶ作業でした。湿っているヘドロは重くて臭いうえに、周辺の建物は半壊、乾いたヘドロの粉塵が舞っている為、ヘルメットと防塵マスクをしての大変な作業でした。夕方までに100袋強の土嚢袋を運び終わり、すっかりきれいになりました。
「目の前の私道では回収してもらえないので、運んでもらってとても助かったよ」と言ってもらえました。その後、近くの一人暮らしのおばあちゃん宅の片付けをして、お茶をしながら話を聞きましたが、地震と、これから先の事を考えた精神的なショックで具合が悪く、立てなくなってしまったそうです。津波からしばらくは近くのビジネスホテルに避難して、停電しているがベッドで寝られていたので私は幸せだと言っていましたが、他の場所に避難した人たちに弱音を言ったら、自分は毎日ベッドで寝ていたくせにと怒られてしまったと言っていました。町内会長も「高齢者は、毎日お弁当などを配り続けると立ち直れなくなってしまうが、近くの商店は災害で廃業してしまう方が多いので、いつ配るのを止めるかを決めるのが難しい」とも言っていました。
最終日の4日は、震災直後に高橋が行った東松島の老夫婦の家に寄って行きましたが、東松島も壊滅状態で家の壁に付いている水位の後は2mを超えていました。2本線があったので、聞いてみると、2回目の津波が大きかったそうです。おじいさんは消防団一筋で全国大会でも優勝したと沢山の賞状を見せてくれました。そんなおじいさんなので積極的に近所の人を誘導して、自宅の二階に避難させたそうです。
地震の直後に津波が来て、雷のような音が聞こえたのでそっちを見たら巨大なガレキの壁が迫ってきたそうです。津波というよりはガレキの波で、とくに引き波でみんな壊されてしまったそうです。
夕方には引き上げることにして、観光客が多く来ていた松島で温泉に入り、塩釜でお寿司をたべて帰路に付き、5日朝には自宅に戻りました。
私は今後も、無理をしない範囲で長く関わっていきたいと思います。そう教えてくれたのは、新潟のボランティア団体で知り合った一人のおじさんでした。そのおじさんは、八千代市からほぼ毎週末新潟まで通い、淡々と作業をしてる方でした。
その団体の解散するころには、お金を持ち逃げする者や、企業が提供してくれた物資を私用で使う者、住み込みで無料の食事を食べて毎日ダラダラしているだけ人なども居て、周辺住民にも迷惑な存在になっていました。
残念ながらご病気で亡くなってしまいましたが、葬儀で会ったボランティア仲間と数年ぶりに石巻でも偶然会えたのでつながりを作ってくれたのだと思います。今後の活動についてもまたの機会にご報告します。
2011年6月25日(土)NPO法人ちば環境情報センター度総会が千葉市中央区事務所にて実施されました。
南川忠男氏を議長に選出し、正会員42名中、出席者12名,委任状15通(合計27名)で正会員の過半数を超えたことを確認。2010年度活動実績報告,収支予算報告及び監査報告,2011年度活動予定,収支予算が承認されました。会員の方には、関係書類を同封いたしましたので、ご確認ください。
総会後の懇親会では、先月号のニュースレターにカンゾウの国内栽培について投稿してくださった伊藤徳家氏に、詳しいお話を伺いました。
皆さんも今年の活動に是非参加していただき、ご意見いただけますよう、お願いします。 (事務局)
命は同じ〜福島原発警戒区域内の動物達〜
動物保護グループ『ワン子の会ちば』 藤本 千鶴
福島原発の警戒区域内に取り残された動物達。彼等の映像を見るにつけ、人の身勝手さをいやと言う程感じます。60数年前の戦争で上野動物園の象を人のために餓死させ,今ではそれを悔いるお話が出来ていると言うのに、今、この時に大規模に同じ苦しみを受けている動物達が居る事。日本人の精神レベルはあの時から何も向上していないのです。
『わん子の会ちば』で何か出来る事は無いのか? まず、『警戒区域内に取り残されている動物達の命を繋ぐ署名』と『募金』活動を始めました。心を痛めている多くの方が居る事を伝えるため、現場である福島県知事宛に署名と募金を送りました。
警戒区域の現状を見かねた会のお散歩ボラさん二人が、現場の動物保護団体の手助けに行きました。ガリガリに痩せた牛達、繋がれてウンチだらけの犬達、彼等に餌をやり、保護出来る犬を引き取ってきました。5月13日の夜9時に一匹の黒柴を連れて帰ってきました。『べリー』と名付けました。どんな思いで2ヶ月も家族と離れていたのかと、せつなくなります。が、『べリー』は元気で、とても人なつこく半月が過ぎました。突然、『ベリー』の飼い主が見つかり、6月1日お迎えの車が来ました。其の車に気付いた『べリー』は一瞬動きを止めました。降りて来た2人を見て、全身で喜びを表していました。
同じ日に、千葉市動物保護指導センターから引き取った3才の雑種のワン子も、優しい家族の元に巣立ちました。『きなこ』ちゃんです。
『ワン子の会ちば』は小さな犬猫保護のグループですが、10年間活動を続けています。犬保護は、公園等に捨てられた子達からはじまり,今では千葉市、千葉県の動物保護指導センターからの引き取りが主で、新しい家族探しをしています。猫は、今でも地域に多く生息しており、その子達の新しい家族探しと、最近は、地域猫として餌やりを続ける人達の捕獲避妊手術の手助けをしています。
会では、活動を一緒にして下さる方、犬のお散歩、募金活動(千葉駅前)等に参加して下さる方を募集しています。
会の活動は多くの方の善意のご寄付と援助に支えられています。活動に参加して下さる方、ご寄付頂ける方は以下にご連絡下さい。
連絡先:fujic928@cnc.jp ブログ:http://blog.goo.ne.jp/siromomo12/
郵便振り込み先:00160-6-97838 ワン子の里親会ちば
ニュースレター7月号(第169号)の発送を 8月 8日(月)10時から事務所にておこないます。発送のお手伝いをしてくださる方を募集しています。よろしくお願い致します。
編集後記 : 真夏のような青空が広がっています。6月28日、九州南部では51年以降2番目に早く梅雨が明け、千葉県の梅雨明けも早そうな空模様です。例年だとすかっとした夏に心躍るのですが、放射能汚染の現状と、将来につけを残す廃棄物のことを考えると、今年はそうはいかない気がします。長い永い戦いの始まりです。 mud-skipper