ちば環境情報センター ニュースレター 

ちば環境情報センター > ニュースレター目次>ニュースレター第184号 

2012. 11.7 発行    代表:小西 由希子

目   次

  1. 北海道でサバが獲れたのは海の異変?
  2. 貝のよもやま話2 -なつかしの貝細工-
  3. 鎌ケ谷 水事情 Ⅳ.治水
  4.  暮らしの中の緑

北海道でサバが獲れたのは海の異変?

大網白里町 平沼 勝男

 最近、新聞やテレビのニュースで、北海道でサバの豊漁に沸いているという報道がありました。34年ぶり!? 海の異変では!? 海水温が高い、犯人は地球温暖化!? といった少しショッキングな報道のされ方でした。ご覧になった方も多いと思いますが、これについて少し補足させていただきたいと思います。
 このニュースレターを書いている10月12日の時点ですでに8000トン近くのサバの漁獲を確認しています。1万トンを超えるのは間違いないようです。 近年はほとんど獲れていなかったのが数年前から少しずつ獲れだしたと筆者は記憶しています。ただし過去には今年以上にたくさん獲っていた時代がありました。
 ピーク時の1973年には19万7000トンもの漁獲がありました。豊漁の最後は1978年、この時2万2700トンでした。これが34年前に当たります。このことを考えますと、北海道でサバが獲れたイコール気球温暖化はいささか早計のように思えます。

   

 サバの漁場は北海道の東の沖で、最寄りの漁港は釧路港になります。しかし釧路港に水揚げしたのは8000トンのうち2400トンのみ。残るは青森県八戸に水揚げしました。ここが面白いところで、釧路港は日本有数の漁港なのですが、普段獲れていないサバが急に獲れると受け入れ態勢が十分ではなく、漁船はわざわざ遠く青森県八戸港まで足を延ばして水揚げしました。昔はたくさんのサバが釧路港に揚がっていたのですが。
 一方、八戸はサバの街と言われています。スーパーでしめ鯖を買うとそのメーカーの所在地は青森県八戸市であることが多いと思います。近年サバは八戸沖、いわゆる三陸周辺が一大漁獲地です。このため八戸がサバの街として発展しました。新聞報道が騒ぐのは、普段は三陸沖の漁場であるはずのサバが北海道で獲れた、このことが海の異常、地球温暖化につながっているようです。しかし八戸では今でも前浜物(近海物)のサバが水揚げされています。と言うことは、漁場が移ったのではなく、漁場が北方に伸びた、もしくは北方に漁場が復活したと言った方が間違いのない表現であると思います。
 八戸の前浜物のサバと釧路沖のサバ、両者を比べると明らかな違いがあります。前者の平均的な重量は400g~500g。後者は600g以上あります。明らかに釧路物が大きいです。水産庁の資源としての扱いはこの両者は大きく見て同じ群に属するものと考えています(太平洋系群と言います)。
 サバは回遊魚です、詳しいことは省きますが、産卵場は伊豆半島沖の暖かい海域。ある程度成長しますと、7月から10月にかけて、栄養の豊富な三陸沖から北海道東沖の広い範囲に分布域を広げ、餌をたくさん食べます。体の大きなサバは運動能力に優れるため、より豊かな釧路沖まで行き、たっぷり栄養を取って太ります。それより小さなサバは三陸沖で餌をとります。つまり最近サバの資源量が増えてきたことで、より広い範囲に回遊を広げ、大きく成長したとみるべきではないのでしょうか。
 ちなみに釧路沖のサバは美味しいのでしょうか。私が八戸の業者に聞いた話ではその時点(10月15日)では脂は多いもののまだ十分に身に回っていないとのことでした。この意味は、サバの脂ははじめ内臓の中に蓄えられます。それが次の段階では皮と身の間に入り込みます。ここまでの状態では焼くとモクモクとたくさんの煙が出ますが残念ながらそれほど美味しくはありません。美味しくなるのは身(筋肉)の中に脂が入り込んだ時です。
 皮の下の脂が身の中に入り込みます。そうすると美味しくなります。時期は10月末から11月中旬まででしょうか。ただしこの頃のサバは南下している可能性があります。北海道沖から三陸沖でしょうか。魚体が大きいと脂の量も多くなるのでとても美味しいサバになります。この時期スーパーで見かけたら是非買ってみてはいかがでしょうか。目印は大きな600g以上のサバです。

 

貝のよもやま話2 -なつかしの貝細工-

千葉港ポートパークかもめのクリーン隊 千葉市中央区 谷口 優子   

 大田区立郷土博物館では特別展「懐かし うつくし 貝細工」※が開かれています。庶民の観光みやげレベルから豪華な螺鈿(らでん)の美術工芸品まですばらしい貝細工が展示されています。意外なことに「貝細工」は江戸で人気の見世物だったそうです。現物はありませんが、貝で作った大型の鳥や花が番付になって残っています。江ノ島の貝細工は弁天詣でのおみやげで人気がありました。黒船来航の折、下田から貝細工、ヤコウガイの盃などが積み込まれてアメリカへ渡ったという記録が残っています。ちなみにペリーが持ち帰った「モスソガイ」の別名は「ペルリボラ」といいます。

   

 貝細工というとすぐに思い浮かべるのは海水浴のおみやげものではないでしょうか。稲毛海岸が海水浴場だったころたくさんの貝細工が海の家で売られていたそうです。先日伊豆・堂ヶ島へ行ったときにも露店でおばちゃんたちが貝細工を売っていました。貝はフィリピンなどからの輸入品が多く、しかもとても大きくてどうやって持って帰るのだろうと思ってしまいました。毎日棚にならべるのもたいへんそうです。この日は日曜日だというのに観光客はほとんどいませんでした。

 

 館山市でもわたしが住んでいた2000年ごろまではまだ駅前のおみやげ屋さんに貝細工が置いてありました。これは友人の家にあった貝細工の写真です。40年ほどまえにお義母さんが子育ての合間に内職で作っていたものだそうです。
 ユーモアがあってとてもかわいいですね。これらの貝は地元で採れる貝を使っています。この時代の貝細工はあまり残っていないようです。こちらは最近ネットで買った「房州みやげ」。南房総市富浦にテンゴク堂という薬屋さんがあるので関係があるのかもしれません。みなさんのおうちにも思い出いっぱいの貝細工が眠っていませんか?

※大田区立郷土博物館「懐かし うつくし 貝細工」は11月25日まで開催しています。  

鎌ケ谷 水事情 Ⅳ.治水

鎌ヶ谷市 環境省環境カウンセラー 倉田 智子 

 水系の上流部に位置する鎌ケ谷でも、川にかかる橋が流されたり、また手賀沼の水が逆流し洪水に見舞われたことがあった。その原因は利根川にあり、今回は激甚災害に対応する「水路の歴史」の話である。

   

 流路322km、流域面積16,840㎞2という日本一の河川でありながら、当時整備が後回しにされていた利根川において、昭和10年代に相次いだ洪水に対応して、流路全域に及ぶ整備が計画された。「利根川増補計画」といい、河川整備だけでなく、新たな放水路開削が盛り込まれていた。鎌ケ谷はその通過地で、市内にはこの時設置された測量標が存在する。また用地買収も行われ、掘削の痕跡まである。「内陸なのに、なぜ」と思われるだろう。それは掘削土砂を下流側へ運んで東京湾埋立に使うために、分水界をなす中間点の工事が重要となるからである。
 この水路は通称「昭和放水路」と呼ばれ、銚子河口から約80kmの地点(古利根沼付辺)より流入させ、洪水を早く流し、下流への負担を減らすための計画である。田や湿地、既存の流路をつなぎ、高い所は掘り割り、逆流させ、東京湾までの30kmを河口へと流下する水路は、幅が240mもの壮大なものだ。洪水防除のみでなく、掘削土砂で東京湾を埋め立て、大工業地帯を造成し、また舟運に役立てるという多目的のプロジェクトである。
 しかし工事は着工したものの、第二次世界大戦の影響で、資材も人手も不足し進捗せず、中止となった。下流部から始まる工事では港湾部の掘削や橋脚が建設されたが、戦後工事は再開されることなく終わっている。谷津町(現習志野市)・船橋市・鎌ケ谷村(現鎌ケ谷市)にわたる100ヘクタールほどの買収地は、自作農創設特別措置法により、耕作希望者に払い下げられた。
 この調査は市内のみでなく、流路全体―我孫子から印西、白井、船橋、習志野、八千代、さらに港湾整備のための石材産出の地、鋸山周辺にまで及んだ。現地を歩き、文献を探し、各地で聞き取り調査をし、また法務局に出向いて買収地調べを行なった。『利根川増補計画 昭和放水路をたどる(崙書房出版2009)』としてまとめるまで、10年近くもの時間を要した。

   

 水路の歴史を追って思ったことは、災害に立ち向かう人の強さ、地形のふしぎ、そして水の大切さ、怖さなどもろもろである。加えて土木が身近なものになった。それは「自分の関係したものが壊れたとなると、これ以上の恥はないと考えた」という工事関係者の言葉や、戦後の闇物資を避け、栄養失調でなくなるような清廉な方がおられたことを知ったためもある。
 カスリーン台風以降、利根川の治水は上流部に重点が置かれ、八ッ場ダムはその施策の一つである。千葉県内では昭和放水路の流量が長く計画として残っていたが、2005年、従来の計画流量を1/3の1,000m3に変更、長門川に流入口を設け、北印旛沼、西印旛沼を調節池として活用、印旛放水路を経て東京湾へ流下させる案になった。
 鎌ケ谷市東部から、船橋市と白井市の境を流れて印旛沼に至る二重川の、昭和放水路の計画に於ける流路は、東京湾へと逆流していた。「二重川に親しむ会(船橋市)」では、流れを変えるほどの治水計画があったことを地域住民に知らせるため、印旛沼アダプトプログラムを活用して、測量標2基を橋のほとりに設置する。ほかの地域でも、治水のモニュメントとしての使い途を検討してみては、いかがだろうか。

 暮らしの中の緑

市原市 南川 忠男 

 10月28日ちば環境情報センターの賛助会員で、造園家の高田さんが設計した庭の見学会が実施されました。限定15名で募集があったので、私も1か月前に申し込みました。約1時間再生古民家とその敷地の周りの「暮らしの緑」を見学後、古民家の6畳二間と廊下に約40名が詰め(当然立ち見あり)、庭における植栽のこつ、個人の庭と街の緑の調和、木々のある暮らしと今後の住環境など高田さんの熱弁を2時間くらいお聞きしました。屋敷林の知恵では屋敷の北に樹木を配置するのは 涼しい風を窓や床下などから入れ込むことで夏涼しくなるそうです。冬は直接北風が当たらない。高田さんいわく「西と北が住環境には大事」。

 建物を囲む樹木の配置は低木、中木、高木を群落で植えると木々が競争して強い木に育ち、太陽の光や熱が幹に直接あたると一番ダメージがあるが、低木などの葉で高木の幹が覆われ、成長が早くなるとお聞きしました。自分の庭のしらかしやえごのきも剪定すると幹を保護するように若い枝が垂直に発達してくる理由がよくわかりました。地下40cmでは微生物の呼吸で二酸化炭素の濃度は10から20%もあるそうで、これを超えると樹木の生長に悪影響があるので、樹木を植える時は60cmくらい穴を掘り、そこに小枝などを土と一緒に入れ込み更にマウンドを作って根の通気をよくする工夫をされていた。江戸時代から今も続く街道の松並木(日光を思い出すが)はマウンド工法だったので強い樹木として生き続けている。
 庭を斜めに15m縦断している幅50cmの流れの岸を自然石で囲み、60Wの地下ポンプが循環させていました。小さな魚も泳いでいました。浸透しないように底は粘土で幾層にも固め、ちょろちょろ流れる風情あるせせらぎの水音がそこから眺める中央の広い芝生と背景に家を見るその周りの植栽(高さを上中下でアレンジ)を視界にいれ、何と言ってもこの秋山邸の庭の一番の癒しと思いました。少し風がそよぐと樹木の葉がこすれる音と小鳥のさえずりそして植栽の影と光の調和が見え、五感で美しいと感じました。あと、駐車場のコンクリートは夏の熱を保持しすぎるので、真砂土(まさつちと呼ぶ花崗岩の風化した砂)を押し固めた施工で、コストも安い。
 樹木が風で倒れないよう支柱を立てると根の生成力が1/3に落ちることを学びました。樹木は風で揺れることで育つ。高田さんは最近手がけた鹿児島県の姶良土地開発との新築8世帯の協働庭も手掛けられ、個人の庭が街の景観づくりにも貢献できる考慮をされていました。すばらしい庭師で、当日も受け付けや会場案内など若いお弟子さんが献身的に働いていました。最後に話された「50年経って良かったと思われる植栽を」目指しているお言葉で庭にかける強い信念を感じました。これからも応援します。

【発送お手伝いのお願い】

ニュースレター 12月号(第185号)の発送を12月 7日(金)10時から事務所にておこないます。発送のお手伝いをしてくださる方を募集しています。よろしくお願い致します。


編集後記: 編集後記:谷津田のきのこ観察会では、40種類以上が見つかり、改めて豊かさを実感しました。ところで、毒キノコを見分ける方法なんて本当はないのだそうです。人の顔を覚えるように一つ一つ覚えましょう、と先生のお話に納得。しかし放射能濃度はなんと379Bq/kg。自然の恵みがここでも侵されています。 mud-skipper♀