ちば環境情報センター > ニュースレター目次>ニュースレター第219号
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我孫子市 為貝 和弘
2015年8月11日より1号機の稼働が再開された川内原子力発電所の様子をこの目で見たくて、9月4日に現地に行ってきました。3.11より以前に、東電のTEPCO電源PR館(奥利根)の展示を見ていた事もあり、九電の展示館の展示内容が、震災の悲惨な経験を反映したものになっている事を期待して、最初に川内原子力発電所展示館に向かいましたが、そこに至る原発敷地の周囲は、上が有刺鉄線で覆われた柵で全て囲われており、監視カメラが随所に設置されていました。
まずは、展示内容を見ての感想ですが、3.11以降で特に変更になっていないんじゃないでしょうか。原子力発電の仕組み、安全対策、エネルギー効率性、コストの優位性、環境へ与える少ない影響、核廃棄物の処理方法等を学ぶにはいい展示なんですが、ひたすら原子力発電の優位性を説明しているようで。安全性については、チェルノブイリ原発の事故と比較して、川内原発では絶対にあのような事は起こらないことが強調されていました。東日本大震災についての展示があったのは、展望室内に少しという感じだったと思います。もう少し期待していたのですが。
その後、海岸側から原発を見ようと思い、フェンスに沿って車を進めました。その際に正門ゲートの前を通ったのですが、4名の警備員の方が常駐しているようでした。展示館で会った男性が正門ゲートの所で中の写真を撮ろうとしところ、すぐに警備員の方が寄ってきて男性になにか話しかけてました。男性は、すぐに写真を撮るのを止めて移動したので、咎められたのではないかと思います。
砂浜に出てみたところ、予想外のものがありました。反対運動のテント村です。老人行動決死隊という幟が立っていました。そのメンバーの方と少し話をしたのですが、4名の方が常駐しているそうです。テント村の前はすぐに砂浜で、このような所にテントを張って原発の抗議活動続けている方たちがいるということに驚きました。先日の台風15号で原発抗議の垂れ幕が飛ばされたそうです。
また永田町の経済産業省の前にもテントを張っていて、川内原発ができた時から、約30年の間も抗議活動を続けている方が仲間にいるという事を聞いて驚きました。6月には地元で抗議デモを行い、200名くらいの参加者があったそうです。これら全て私の知る限りではマスコミでは紹介されていない事ですね。
他に、今回の原発とは関係ないことですが、鹿児島まで飛行機で行ったので、巡行高度である10000m辺りで放射線の空間線量がどの位になるのか、ガイガーカウンターで測定してみました。これは高空では宇宙線により、かなり放射線空間線量が上がると聞いていたので。測定結果、平均で2μSv/h
でしたが、突然5μSv/h になることもありました。まあ短時間だから気にすることはないのかもしれませんが。川内の放射線の空間線量は我孫子と変わらなかったです。
以上が、今回の川内原発を見に行った事で知りえた事になりますが、マスコミで報道されていない(私が知らなかっただけなのかもしれませんが)事を多く知ることができました。やはり自分の目で実際に見ることが必要ですね。
柏市 上田 真佐江
柏の葉スマートシティーの近隣にあるこんぶくろ池自然博物公園では、春から初夏にかけては、ヤマザクラ、ウワミズザクラ、ズミ、クロツバラ、草本類ではキンラン、ギンラン、ノジトラノオ、夏から初秋にかけてはノカンゾウ、ヒキヨモギ、ワタラセツリフネ、コバギボウシなどが花を咲かせ、秋には、コムラサキ、ウメモドキなどがきれいな実をつけます。この森では、「NPO法人こんぶくろ池自然の森」の整備・調査活動により、希少種を守り生物の多様性を保つ努力がなされています。
平成15年に柏市が「こんぶくろ池自然博物計画」を決定しました。総計18.5haのうち現在開園されているのは12.5haです。全面開園に向け、NPO法人こんぶくろ池自然の森、NPOのアドバイザーである近隣大学の先生方、まさに「産・官・学・民」の協働でこの計画は進行中です。未開園の部分には、2001年に閉園したゴルフ場跡地を含みます。長期間、自然に手を加えずにいると、鎮守の森にあるような植生へと遷移が進んでゆきますが、このゴルフ場跡地は、すでに森の様相を呈しています。
湿地帯はハンノキの林となり、人工池周辺にはうっそうと木が茂っています。現在、池周辺にトンボが生息するような環境を目指して整備が進行中です。池の周りを多様なトンボが飛び交うような自然博物公園が、柏の葉スマートシティーに隣接してある・・素敵な未来予想図ですね。
現在、ゴルフ場跡地の一部は草や木を伐採して芝生を貼り直し、広場として維持管理されています。
かつてヨーロッパでは、100年以上も前、伐採や病気により森林が激減したけれど、市民らの活動もあって、植林により次々と森が蘇っていったそうです。のんびりと森を散策する人々、森の出口の素敵なカフェ・・ヨーロッパの中小都市で見受けられるこんな光景の背後にも、このような歴史があったそうです。
こんぶくろ池自然博物公園では、大学からのアドバイザーの先生方による調査活動も行われていますが、そのうちの1つに、地表徘徊性甲虫によるモニタリングがあります。地表徘徊性甲虫とは、オサムシ科、シデムシ科などの、飛翔性が乏しい甲虫類で、オサムシは、漫画家の手塚治虫さんがご自分のペンネームとして使われたとの逸話もあります。
地表徘徊性甲虫は、種が多様で、移動範囲が狭く、環境の変化に敏感に反応し、種ごとに環境選好性が異なるという特徴があります。つまり、種によって住める環境が異なり、移動性に乏しいのです。また、彼らは徘徊性なので、穴にコップを埋めるだけの簡単な仕掛けで捕まえることができるため、環境指標生物としての期待が寄せられています。環境指標生物とは、中学の教科書にあるような、サワガニがいればそこはきれいな水、サカマキガイがいればそこは汚い水、というように、その生物の存在が環境条件の指標となる生物です。
こんぶくろ池自然博物公園では、湿地性種がいるので湿地環境が維持されていることが確認されている一方で、林縁などを好む攪乱性種が増加傾向にあります。まさに、ムシの知らせ?!森の中での地表徘徊性甲虫の分布から、環境の変化や状況を読み解く試みもなされています。
※こんぶくろ池自然博物公園(柏市)Ⅰ.Ⅱとも、NPO法人こんぶくろ池自然の森のアドバイザーである東京大学 久保田耕平先生の監修を受け、NPO法人こんぶくろ池自然の森メンバーの方々のアドバイスをいただいて作成しました。
大網白里市 平沼 勝男
自然好き人間が散歩をするとどんなことをしているのか、をテーマに4月号のニュースレターで「大網に春が来た」を書かせていただきました。編集長にまた書かせてもらいます、などと軽く言っておきながらだいぶ時間が経ってしまいました。
この日は予定していた、下大和田のお米つくりの脱穀作業が天候の関係で繰り上げになり1日空いたことを良いことに自由に時間を使おう。なんと嬉しいことでしょうか。そこで思いついたのが片貝港での野鳥観察です。ここは昨年の秋頃からたびたび足を運んでいる場所です。波の荒い外海と穏やかな港湾の中、そして小さいけど干潟もありと変化に富んでいることからたくさんの種類の鳥を見ることができる場所で、私の好きな場所の一つです。自宅のある大網白里市から車で向かう道中、渡りの途中のシギ・チドリ類に会えるかな、とか、冬鳥はがもう来ていないかな、などと考えるとわくわくしてしまいます。出発しておよそ30分、山武郡九十九里町にある片貝港に着きました。
港に到着して車を降り、すぐわかったのは穏やかな水面には鳥がまったくいないこと。ちょっとがっかりです。冬鳥はまだ来ていないようです。まだ9月かだから当たり前か。上空にはウミネコが頻繁に飛び交います。それとトビが一羽。前回は2月に来たのですが、その時はスズガモ、キンクロハジロ、ホシハジロ、コガモ、カルガモ、クロガモ、ハシビロガモなどのカモ類。ユリカモメやセグロカモメといったカモメ類。ほかにオオバン、ウミウなどがいて、港の中はものすごくにぎやかな状態でした。
気を取り直して干潟のほうに行きました。しかしここも少ない。コサギが1羽エサを探しているだけでした。しかもこの時間は満潮のようで条件も最悪でした。渡りの時期はもう終わってしまったようです。いつも計画性のない私らしい話です。ここも前回来たときはハマシギの群れがいて、一斉に飛び立つ姿は壮観でした。よく訓練したかのような団体飛行を繰り返していました。その時は夢中でシャッターを押しました。
堤防を歩くと可憐な鳥の鳴き声がします。イソシギが4羽、空から降りてきました。500ミリの望遠で写真を撮りました。堤防の近くの砂浜の上にはウミネコがくつろいでいます。結構な数で100羽以上います。
双眼鏡でよく観察すると大変美しい鳥です。特にくちばしの赤と黒のポイントはチャーミングです。でも目つきはきつい。気の強そうな美人顔です。
外海に向かって歩くとサーファーの姿が目につきます。この日は波がかなり強くサーフィンにはよい日なのでしょう。双眼鏡で波打ち際を見ると1羽の鳥が目に入り、その瞬間釘付けとなってしまいました。ミヤコドリです。実際に目にするのはこの日が初めてでした。特徴のある姿は図鑑でよく見ていたのですぐにわかりました。いつかは見てみたいと思ってきた鳥をとうとう見ることができました。今日はこれだけでも十分満足できました。
千葉市稲毛区在住 小学5年生 吉田 祐
僕は下大和田の谷津田に来て今年で10年目。5年生なので社会と総合のの授業で米作りについて学んでいる最中です。そのこともあり今年は米作りにとても興味があります。
いつもは田んぼで遊んでばかりですが、今回はがんばって稲刈り中心で働きました。始めは泥が足にこびりついて転んだりしたけどすぐに慣れました。今年は草取りもがんばったので雑草も少なく、気温もそれほど高くなかったのでメリットだらけで楽しく刈れました。刈った稲はおだにかけて天日干しにします。これをやるとお米がおいしくなるそうです。とてもめんどくさい作業で、最近では滅多にやらないと聞きました。谷津田では何でも手作業でやるので大変だけど毎年出来る作業が増えてきて楽しいです。
帰りにはクラスの友達の康介とコシヒカリ・赤米・黒米・農林1号の稲をもらって帰りました。クラスの資料にもなったし、とてもいい経験になりました。
哺乳類研究者 香取市 濱中 修
今回は、千葉県という限定をはずして、お話しします。
ネズミが街を襲う
開高健の作品に「パニック」という短編小説があります。主人公はネズミです。「ササがいっせいに花を開いて実をむすんだ」ことによって、「ハタネズミ、アカネズミ、ヒメネズミなど、平常から野外に住む種族の他に、ふだん人家や溝にしかいないドブネズミ」まで「おびただしい数に繁殖」し、「灰色の洪水」になって街を襲うストーリーです。
私は野ネズミの研究をしていますので、「この小説は、どこまで本当か」という質問を受けることがあります。
小説は作り話です。でも、まるで本当のことのように思わせなければ、読者が受け入れません。「パニック」は1957年に発表されました。下のグラフを見てください。そのころ、「ハタネズミ ・・・・・ 」などの野ネズミは、林業に大きな被害を与える害獣でした。当時の人々にとって、「パニック」はリアリティのある小説でした。
野ネズミの捕獲は善行だった
私は、1972年に野ネズミの研究を始めました。当時、私は学生でしたが、調査地から大学に帰ったとき、その日の野ネズミの捕獲頭数が多いほど、教授からほめられました。野ネズミの「駆除」は善い行いでした。今は、昔のお話しです。
「鳥獣保護法」が改正され、2002年以降、野ネズミを捕まえるのにも、県知事の許可が必要になりました。たとえ「ネズミ1匹」であっても、許可なく捕まえると、現在は処罰されます。野ネズミは保護すべき動物に変わったのです。
人間が害獣をつくりだす
もう一度、グラフを見てください。野ネズミによる林業被害は、1970年代の後半から減少して、1980年以降はほとんどありません。
70年前、日本の野山は戦争で荒廃していました。戦争遂行のために、樹木が伐採され、はげ山が日本中にできていました。戦後の混乱期を過ぎた1950年ころから、はげ山に植林が始まります。このとき、針葉樹の苗木が野ネズミに食べられるという大きな被害がでました。グラフの1951年のピークは、そのときの被害です。統計が残っている期間の中で、最大の被害です。
はげ山にも、ササや灌木は生い茂ります。そのような環境が、野ネズミの繁殖適地です。野ネズミが数を増やしている場所に植林したのですから、被害がでるのは当たり前です。
はげ山の植林が一段落した1957年、国は拡大造林政策に転じます。国有林を中心に、天然林が伐採され、針葉樹が植えられていきました。植林は、広大な面積の天然林を一度に伐採してから行いました。また、全国各地に、はげ山ができたのです。その結果、再び苗木が野ネズミに食べられるという被害がでました。グラフの1959年のピークがそれです。
天然林を伐採することに対する国民の批判の声が強くなって、拡大造林は、1970年代後半に打ち切られました。それと同時に、野ネズミによる被害もなくなっていきます。
戦後、野ネズミによる林業被害は、社会的にも注目され、小説のネタにもなりましたが、人間の行為が、野ネズミを害獣にしたことがわかります。
国の拡大造林政策によって、ニホンザルやツキノワグマの生息域であった奥山の天然林まで、現在では針葉樹の人工林に変わってしまいました。そのことが、これらの動物が人里に出没するようになった原因の1つになっています。
害獣による農林業被害は、深刻なものです。被害を受けている当事者の気持ちは、きちんと理解しなければなりません。しかし、対策を立てるに当たって、害獣は人間がつくりだしてきたものであることも忘れてはなりません。
発送お手伝いのお願い ニュースレター2015年11月号(第220号)の発送を11月 6日(金)10時から事務所にておこないます。 |
編集後記: 帰還が始まり一ヶ月が経過した楢葉町。しかし帰還したのは1割にも満たない。帰りたいけど帰れない多くの人たちの重くやるせない気持ちを受け止め、現実的に暮らしを支えることこそ必要ではないか。 mud-skipper♀