ちば環境情報センター > ニュースレター目次>ニュースレター第231号
目 次
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我孫子市 為貝 和弘
7月の中旬、東日本大震災の被災地の現状を見たく思い、我孫子の自宅を車で早朝に出発し常磐道を北上した。そして最初に訪れたのが、石巻と女川町。今回
は、女川原発のある女川町をレポートする。
女川原発は牡鹿半島の中程の北側に位置する。そこに向かう道の途中には、まだ仮説住宅が何棟も見られる。津波にやられた場所だろうか。かさ上げ工事中のところは、ダンプカーが行きかい、また新しくできた道の為かカーナビには頼れず、ビクビクしながら運転した。カーブだらけの山道をしばらく走ると、女川原子力PRセンターに到着する。平日
のせいだろうか、見学者はほとんどいない。受付嬢に「土日は混むんですか」と聞いてみた。「ええ、土日だと30~40名くらいは」という返答。立派な施設なのにもったいないなあ。
女川原発は、東日本大震災の震源地に最も近い原発だが、14.8mの防潮堤のおかげで福島第一原発のように電源供給が絶たれなかった為に被害が最小限におさえられたことで有名となった。女川原子力PRセンターが原発に隣接しており、原子力発電についての解説と、「日本が求められるのはエネルギーミックスだ」という事を納得させようとする展示。そして女川原発では安全性を確保する為に、想定以上の準備をしていますという主張。結局、「原子力発電について危険性は十分に把握しています。でも対応策は十二分に用意してありますから、心配することはないですよ」って事かと納得。
あの大津波に防いだ防潮堤を、現在は海抜17mから29mにかさ上げする工事をしていた。再稼働についても、原子力安全委員会で検討中だと。
女川原発は東北電力、以前に行った川内原発は九州電力、どちらもゲートは警備員による物々しい警戒態勢がとられていた。ゲートの写真撮影も禁止、このPRセンターでは展望室からの写真撮影も禁止となっていた。でもこのゲート、トラックかなんかで突破しようとすれば、簡単にできるのではないかと、ちょっと不安になりましたが。
これだけ安全面には配慮していますよっていう展示を見ても、まだなんか納得できない不安が....。
原発を海側から見たくて夏浜海水浴場のある漁港に向かう。そこにも仮設住宅とかさ上げ工事中の現場とダンプ。そこから見ると防潮堤の工事の様子がよく見える。こちら側から攻撃を企てる輩がいたら、大丈夫なのかなあとまた不安感が。
あれだけの事(下手したら日本消滅)があっても、原発は再稼働の方向へ向かっている....。
北総生き物研究会 金子 是久
前回に続き、船形町・那古町・豊房村・北条町・館山町(現在の館山市)にあった一部の酒蔵の酒類製造場図(北条税務署(1925)明治44年~大正14年の酒類醤油製造場図面綴を引用)を基に、大正時代の酒造りの様子を記載する。
1.泉酒造株式会社(船形町)
(大正時代の当主:和泉直次郎氏)
現在は空地である。酒類製造場図には、清酒、濁酒の製造場、売場、井戸、目の前には海岸があった(図1)。ご子孫の話では、大正12年の関東大震災により店舗と居宅部分を残して全壊し、昭和初期の大恐慌で廃業したとのことである。
2.関酒造部(那古町)
(大正時代の当主:関直蔵氏)
現在は、駐車場および住宅地である。酒類製造場図には、清酒、濁酒および醤油の製造場、売場、4箇所の井戸の記載があった(図2)。大正末期まで酒造業を営んでいた。
3.秋山酒類醸造工場(北条町)
(大正時代の当主:秋山寅吉氏・代々同名を襲名)
この酒蔵は、江戸時代の創業と北条町にあった5件の中で最も古い。酒類製造場図には、清酒、濁酒の製造場、店舗の記載があった(図3)。当主のご子孫の話では、1980年代頃まで酒造業を続けていたとのことである。
4.佐藤酒造場(館山町)
(大正時代の当主:佐藤浅吉)
酒類製造場図には、清酒、濁酒の製造場、売場、井戸の記載があった(図4)。関東大震災で建物が崩壊し、酒造業から酒屋に転身した。
これらの酒蔵は、海からの距離が0~1.0km(明治時代の迅速即図で計測)の海岸砂丘上にあり、海岸砂丘の地下淡水層を仕込み水とした酒造りを行っていたと考えられる。また、これらの酒蔵の廃業理由については、次回、掲載予定。
引用文献
1) 北条税務署(1925)明治44年~大正14年の酒類醤油製造場図面綴.
哺乳類研究者 香取市 濱中 修
キツネは千葉県にもいる
キツネは、警戒心が強く、人間を避けます。それに、キツネの生活に適した環境が少なくなって、今ではキツネの数も少ない。
キツネは、目撃されることが少ないため、多くの千葉県民は、「このあたりには、キツネなんていない」と思っています。でも、キツネは、千葉県のあちこちに、確かにすんでいます。
「先生、キツネって、いますよね。」「ええ、います。」私の答えに安心して、女性はキツネを見たことを話しだしました。
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イヌと違って、キツネは、細身の体をしていて、軽やかに走ります。イヌの尾は、おしりの上で巻いていますが、キツネの尾は、ふさふさして長く、まっすぐ伸びています。そして、尾の先が、白い毛に被われています。キツネを見て、イヌと間違うことは、ほとんどないと思われます。
女性は、キツネを見たことを周囲のひとたちに話しましたが、誰も信じてくれませんでした。だんだんキツネにつままれたような気持ちになって、話すことをやめていました。
キツネの糞は、イヌの糞に似ています。でも、キツネの糞には、獣毛がたくさん入っていることが多い。キツネが、アカネズミなどの野ねずみを食べているからです。だから、キツネの糞を砕くと、ネズミの骨が出てきます。糞は、キツネの生息のてがかりになります。
キツネは原野の動物
『利根川図志』は、江戸時代の終わりころの千葉県の様子を知る貴重な史料になっています。この本は、赤松宗旦が、安政2年(1855年)ころに書いたものです。
『利根川図志』の中に、「稲荷藤兵衛(とうかとうべえ)」のお話が載っています。この本では、現在の佐倉市に、稲荷藤兵衛が住んでいたことになっています。このひとは、語り継がれた民話の中の人物です。実在したわけではありません。稲荷信仰では、キツネの神様を「藤兵衛」とよびます。
『利根川図志』の「稲荷藤兵衛」のお話で、キツネが出現する場所は、すべて荒れ野です。当時の千葉県には、未開の原野がたくさんあり、そこにキツネがすんでいました。荒涼とした原野を通ったときに、キツネに出会うことがあったのです。
キツネは、ススキやヨシなどが一面に生い茂る原野にすみつきます。かつて、印旛沼のまわりには、そういう原野が広がっていました。そのため、佐倉市とその周辺には、キツネがたくさんいたと考えられます。
開発が進み、千葉県内に原野はほとんどなくなりました。キツネが生活できる場所は、河川の堤防の内側に、遊水地として残されたヨシ原などだけになりました。
キツネは重要保護生物
動物生態学では、「どこに住みどういうものを食べるかという生活」※ を、それぞれの動物の生態的地位とよんでいます。キツネは、草深い原野にすみ、野ねずみなどの小動物を捕まえて食べる生活をしています。動物は,生態的地位を失うと、数を減らし、絶滅します。
千葉県のキツネは、人間によって、生態的地位を奪われて、絶滅に向かっていると考えてよい。そのため、千葉県は、キツネを重要保護生物に指定しています。キツネが生活できる環境が失われないように、保全していくことが大切です。
※本川達雄(2015年)『生物多様性』中央公論新社
下大和田谷津田観察会とゴミ拾いは
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ニュースレター2016年11月号(第232号)の発送を11月7日(月)10時から事務所にておこないます。
発送のお手伝いをしてくださる方を募集しています。よろしくお願い致します。
編集後記 : 「下大和田谷津田ごよみ2017」の制作が始まりました。昨年、今年となかなか好評で、編集委員一同、下大和田の豊かな自然を皆さんに紹介できるよう張り切っています。ニュースレター12月号とともにお届けできる予定ですので、お楽しみに。 mud-skipper |