ちば環境情報センター > ニュースレター目次>ニュースレター第259号
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東北大学大学院教授(環境社会学)・仙台PS操業差止訴訟原告団長 仙台市 長谷川 公一
市民パワーが市原・蘇我・袖ヶ浦の石炭火力を止めた!
東京湾の千葉県側には市原・蘇我・袖ヶ浦と3つの石炭火力発電所の建設計画がありましたが、本年1月31日までに、3つとも撤退が発表されました。蘇我と袖ヶ浦は天然ガス火力に計画変更して事業性を検討するとのことで、なお警戒が必要ですが、新規の3つの石炭火力発電所計画が全て止まったことは、千葉県の市民運動のパワーによるところが大きいと思います。ご苦労も多かったことと拝察いたしますが、長年にわたるみなさんのご努力を大きな拍手で、仙台より心から讃えたいと思います。連帯の意志を込めて。
被災地宮城県を襲う災害便乗型エネルギー・ビジネス
私たちは関西電力・伊藤忠商事の関連会社が経営する仙台パワーステーションという仙台港に建設された石炭火力発電所(11.2万kW)の差止めを求めて、2017年9月から裁判を始めています(同年10月1日から操業開始)。東日本大震災の被災地宮城県には、このほか女川原発2号機の再稼働問題、レノバ社による輸入木質バイオ発電所の建設案件が2件(仙台市・石巻市)、旅行業者HISによる宮城県南部の角田市へのパーム油発電所建設問題など、問題の大きい発電所案件が山積しています。開発志向的な村井嘉浩県知事のもと、震災による地価の低下・送電線の空き容量などを狙った、災害便乗型のエネルギー・ビジネスが横行しています。
パーム油発電、何が問題か?
今回は、角田市でのパーム油発電所建設問題について解説いたします。旅行業者HISがなぜ発電事業を手がけるのかは、実はよくわかりません。儲かれば何でもするのでしょうか。「電力自由化」に便乗し、「再生可能エネルギー」の名のもとに、営利最優先の環境破壊型ビジネスが横行するのは困ったものです。
私たちは1月15日付けで、HISの澤田社長宛に計画撤回を申し入れましたが、NPO法人ちば環境情報センターも賛同団体として名を連ねて下さいました。大変心強く励まされました。深謝申し上げます。
パーム油発電はあまり聞き慣れないかもしれませんが、アブラヤシの実から絞ったパーム油を燃料としてディーゼル発電を行うものです。植物由来であることから、バイオマス発電の一種として、日本では固定価格買取制度の対象となっています。
けれども、大量のパーム油の供給を意図したアブラヤシ栽培のために東南アジアなどで森林伐採が進み、オランウータンの生息地が破壊されるなどの生物多様性への影響、森林火災の発生、泥炭地開発による温室効果ガス(GHG)の排出、強制労働による農園労働者の人権侵害、農園開発に伴う地域住民との土地紛争など、社会的な問題が数多く指摘されています。
欧州委員会の委託により行われた調査では、パーム油発電が引き起こすCO2排出量は231g CO2-eq/MJと、石炭火力による排出量(90.6gCO2-eq/MJ)の2倍以上にも上ります。パーム油による発電は再生可能エネルギーとして不適切なのです。そのため、米国ではパーム油を燃料として利用することを認めておらず、欧州でも利用を制限する動きが強まっています。日本の規制の立ち遅れが、このような悪質なパーム油発電を固定価格買取制度によって、国民負担で支えるという構造になっています。そこにHISのような企業が営利のために付け入ろうとしています。
哺乳類研究者 香取市 濱中 修
柳田国男と布川の間引き絵馬
JR成田線布佐駅から利根川に向かって歩くと、十数分で栄橋に着きます。この橋を渡ると、そこはもう布川です。柳田国男は、明治20年(1887年)、12歳のときに、この町に引っ越してきて、2年間ここで暮らしました。晩年の柳田が語った布川での一番の思い出は、間引き絵馬でした。
利根川の川岸は、栄橋のところで切り立った断崖になっています。その断崖の布川側の高台に、徳満寺というお寺の地蔵堂があり、そこに間引きを戒める絵馬が掲げられていました。柳田は、利口な少年でしたから、この絵馬が何を意味しているか、すぐに理解し、心に強い衝撃を受けました。
江戸時代の始めに、東京湾に注いでいた利根川を太平洋に注ぐように切り替える工事が行われました。布佐も布川も、高台になっていましたが、その真ん中を切り開いて、利根川の新しい流路にしました。
布佐と布川の間に掘られた人工の掘り割りは、幅が狭かったうえ、両岸は高台ですから、大雨で増水したとき、利根川の水は、ここでせき止められて、周囲の低地にあふれ出しました。布川のまわりの農村は、たびたび洪水に見舞われ、そのたびに飢饉になりました。食べ物もない貧しさから、ここでは間引きが実際に行われていました。
布川のキツネの受難
130年前の布川にはキツネが住んでいました。キツネとの出会いも、柳田の布川での思い出の1つでした。
「私が布川に移った翌々年のことである。毎夜台畑のところでキツネが鳴くので、家族は顔を見合わせて不思議なことだと語り合っていたのであるが、実は隣家の下男がキツネの穴を埋めたため、キツネが困ってクオオ、クオオというふうに鳴いていたのであった。そうしたある日の昼下がり、家の裏手からふと台畑のほうへ目をやった私は、凝然と立ちすくんでしまった。そこに2匹のキツネが座っていて、それが私のほうを見ているように感ぜられたのである。」(1)
柳田が住んでいた明治20年代まで、利根川沿いには、洪水であふれ出た水を受け止める遊水地が残されていました。遊水地の中の自然堤防の上には、アカマツ林が造られていました。後背湿地はヨシが生い茂る萱場になっていました。
大雨は土砂を洗い出して、濁流となって川に流れ込み、下流であふれ出ます。その結果、あふれ出た水の中の土砂は、川沿いに堆積します。土砂が堆積したところは、少し高くなります。そういう場所を自然堤防といいます。自然堤防の外側は、水はけの悪い低地になります。そういう場所を後背湿地といいます。
布川は、たびたび洪水が起きた場所ですから、自然堤防と後背湿地からなる地形がつくられていました。柳田が住んでいた集落は、布川の郊外の自然堤防の上にあり、家のまわりは畑になっていました。周囲より高いところにあったことから、この畑は台畑とよばれていました。
キツネは遊水地の中の自然堤防に巣穴を掘って住んでいました。遊水地にはアカネズミやカヤネズミがたくさん住んでいて、キツネはそれらの野ねずみを捕らえて食べることができました。
柳田が見たキツネは、集落がある遊水地の外の自然堤防に、間違って巣穴をつくってしまい、災難にあいました。この後、もっと大きな災難が、布川のキツネ、そして利根川沿いに住んでいたキツネたちに襲いかかります。遊水地の消失です。 明治29年(1896年)に制定された河川法に基づいて、明治33年から利根川に人工の堤防が造られていきます。利根川の流れは、高い堤防の中に押し込められます。その後、明治32年に制定された耕地整理法を根拠に、川沿いに残っていた遊水地は、農地に変えられていきます。キツネたちは、国策によって生活場所を奪われていったのです。
遊水地の恵み
神田駿河台のニコライ堂で知られるニコライは、明治25年(1892年)に手賀沼のまわりの村々を訪れて、この地方の当時の様子を日記(2)に記しています。
手賀村はおよそ500戸。下手の低地は水田になっているが、しょっちゅう川の水をかぶる。高台は麦、ジャガイモなどの畑。もう稲の刈り入れがはじまっていた。」(1892年10月11日)
利根川沿いの村々は、たびたび洪水に襲われたのですが、遊水地のおかげで大きな被害が出なかったことがわかります。
「鴨猟は10月にはじまり3月まで続く。広い範囲で網を水面から上へ立てて張る。猟師たちの小舟は葦の間に潜んでいる。日が暮れてくると鴨が群れをなして飛来し沼に降りてくる。そのときに網にかかる。それを生け捕りにする。たいへんな数で、たとえば布瀬ではどの家も網を仕掛けるが、1軒の家で一晩2羽から20羽の獲物がある。・・・
鴨の他に、沼で獲れるたくさんのうなぎも、ここから東京の市場に送られている。・・・ 」(1892年10月12日)
布川は手賀沼がある千葉県ではなく、利根川の対岸の茨城県にあります。しかし、当時の風景は、手賀沼周辺と変わりませんでした。遊水地は、地域で暮らす農民たちに、いろいろな恵みをもたらしてくれていました。遊水地の開発を、荒れ地を農地に変え、地域を豊かにする事業ととらえるのは、一面的な見かたになります。
遊水地がなくなることが災難だったのは、キツネだけではありません。猟や漁を副業にしていた農民たちにとっても、災難だったのです。
千葉市花見川区 宇井 哲
落ち葉の舞う森の中、息子と食べた焼き芋は、とても甘くまた懐かしい味でした。
11月の終わりの週末、下大和田の谷津田で、息子と2人で焚き火を満喫させてもらいました。焚き火台を2つ構え、ひとつは焼き芋を、もうひとつは焚き火そのものを楽しんだりして朝から昼過ぎまで5時間ほどを、ゆったり過ごしました。
比較的暖かくのどかな気候だったためか、まだ、ナツアカネかアキアカネがのんびりと田んぼの畦で羽を休ませていました。火を焚いていると、やわらかい風がさぁっと吹き抜け、静かな森の中に欅の葉がはらはらと舞い落ち、とても幻想的でした。
皆さんもイベントだけでなく、時にはひっそりと田んぼに遊びに来られることを是非お薦めします。川で魚と戯れたり(メダカ・ギンブナ・ドジョウ・スジエビ・ヨシノボリにはほぼ100%会えます。たまに絶滅危惧種のシマドジョウ・ホトケドジョウ・最近はあまり見なくなったタモロコにも会えるかもしれません。)、木や竹で工作したり、鳥を眺めたり鳴き声を楽しむ、昆虫や草花を観察する、無限大の遊びや探求がこのフィールドには広がっています。
一年中水を湛えている田んぼが、この豊かな自然を支えています。この活動に参加や支援していただいている皆さまに、感謝しております。
今回は小学校6年生の次男と一緒でしたが、高校3年生の長男が2歳の頃からお邪魔しており、かれこれ16年くらいの下大和田歴になりましょうか。ようやく今年から運営スタッフとして参加いたしますので、これからどうぞよろしくお願いいたします。
先日は、傍らで網代さんがお仕事をされているのを視界の端に見て、申し訳ない気持ちもありました?!が、かまわず最高の休日を過ごした私たちでした。
千葉県野鳥の会 市川市 蓮尾 純子
1967年3月下旬、大学入試を終えた日からスタートを切った「新浜のこと、どうしよう」。幸いに裕子さん(日本獣医畜産大学;現在は日本獣医生命科学大学)、私(東京農工大学)、楡里ちゃん(一浪で早稲田大学)と三人とも大学が決まりました。いろいろな先生方、鳥の大先輩の方々にお話を伺った結果、ともかく「新浜はこれほど大切な場所です」という資料をまとめてみることになりました。入試を終えてから半月そこそこ、日本野鳥の会東京支部に呼びかけ、渋谷区南平台にあった山階鳥類研究所で4月11日に1回目の会合を持ちました。
呼びかけたのは私たち、大学に入ったばかりの女の子(52年前は、ですよ、もちろん。現在は三婆でみな孫のいる身ですけれど、当時は可愛かったといううわさもいちおう)3人と、高校に入ったばかりの男の子、山本英夫君(写真家で沖縄に移住し、今も埋立反対の活動を続けています)の4名。資料まとめに永福町にあった裕子さんの実家に何度もお邪魔したり(ペキニーズのサンちゃんによく吠えられたなあ)、ガリ版刷りの資料作成には山階鳥類研究所の蓮尾嘉彪(当時の私たちにとっては、若手とは言え雲の上の方たちのひとりだったのですが、最初から万事手伝ってくれていました)の手を借りたり。今のように手軽にコピーをとれる時代ではありません。コピーと言えば青焼きコピーがほとんどで、コンビニができるのもたぶん10年近く後のこと。
呼びかけ文はこんな内容。『新浜問題について話し合う会のお知らせ』「みなさまよくご存知のとおり、渡り鳥の楽園であった新浜の埋め立ては、最近ますます急ピッチになりました。行く度にがらりと変わる景色を見てはため息をつくばかりです。せめて、ため息よりましなことができないものか‥‥‥そこで、まずこのことについて話し合う会を開こうじゃないかということになりました。日時、場所は左記のとおりです。日時 四月十一日(火)午後六時半より 場所 山階鳥類研究所にて ~中略~ 一九六七年四月六日 雑用係 北元裕子 木藤楡里 古川純子」
当時の東京支部の会員は700名弱だったか。発送のお手伝いには行っていたので、案内状1枚をはさみこむのは簡単だったのでしょうね。呼びかけから当日までわずか5日しかなかったんだなあ、と、古い東京支部報を出してみて、今さらのように驚きました。平日というのに、夜の山階鳥類研究所には40名ほどが集まりました。誰にとっても新浜の埋立は深刻な問題。何とかならないか、という気持は共通していたと思います。では、何を、どうすればよいのか。誰でも言い出しっぺで責任を負うのはたまらない。話がもやもやとそれて行きそうになった時、「1万円出します。やりましょう」という声が飛びました。
当時の1万円といえば、たぶん今の10万円か、それ以上に相当していたのではないかしら。学生食堂のカレーライスがたしか70円だったか。郵便ハガキが5円の時代です。この声から、にわかに話が具体的になりました。ともかくまずは陳情書を出そう、署名運動も始めよう、それから、それから‥‥‥集まった方々の中から10数名が委員として実際の活動にあたることになりました。山階鳥類研究所と、その中に同居していた日本鳥類保護連盟の職員の方々、そして新浜カウントグループの方々、高野伸二、柳澤紀夫、浦本昌紀、蓮尾嘉彪、広居忠量等々の社会人のみなさんが「小委員会」、そして三人娘+高校生の山本君に加えて、泉谷直幹、前川広司、安達裕之、間もなく浜口哲一、山科健一郎、藤村仁等、おもに大学1、2年(一部高校生)の学生メンバーが実働部隊の「執行部」ということで、いきなり「新浜を守る会」が発足したのです。
【発送お手伝いのお願い】ニュースレター2019年3月号(第260号)の発送を3月6日(水)10時から事務所にておこないます。 発送のお手伝いをしてくださる方を募集しています。よろしくお願い致します。 |