ちば環境情報センター > ニュースレター目次>ニュースレター第260号
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やちよ自然エネルギー市民協議会 八千代市 松尾 昌泰
八千代市内で初となる市民発電所「やちよ未来市民発電所第1号」のプロジェクトが始まりました。これは、八千代市で自然エネルギーを推進する地域ネットワーク「やちよ自然エネルギー市民協議会」から生まれた「一般社団法人やちよ未来エネルギー」(代表理事 高山敏朗)による「コドモミライプロジェクト~みんなで創るやちよ未来市民発電所」の第1号です。
(1) 「一般社団法人やちよ未来エネルギー」を設立
2017年10月に設立された「やちよ自然エネルギー市民協議会」(代表 松原弘直)では、1人でも多くの八千代市民に参加していただく為に、「みんなで学ぶ会」をたびたび実施し、自然エネルギーの先進事例の勉強会やワークショップ、また見学会などを行ってきました。
同時に新会社「一般社団法人やちよ未来エネルギー」が2018年に設立されました。子どもたちの希望ある未来へ向けて、市民による地産地消の自然エネルギーの取組み、そして持続可能な自然エネルギー社会をつくることです。
(2) やちよ未来市民発電所1号
八千代市内にある「高津幼稚園」の屋上をお借りし、太陽光発電設備(19.2kW)を設置し、2019年5月より発電稼働の予定です。市民で創りあげる八千代市初の市民発電所となります。
一般社団法人やちよ未来エネルギーでは、「みんなで創る会」をつくり、子供たちを含め、みんな一緒に自分たちで、日曜大工の気分で屋上にソーラー発電パネルを取り付ける予定です。
この方式は、たまエンパワー㈱のDiO(Do-It-Ourselves)工法で、アンカーを打たない置き型の架台にソーラー発電パネルをボルトで取り付け重しを置いたら終わりです。素人でも組み立てられる設計になっています。
この「みんなで創る会」の第2回目が来る3月17日の10時~14時に行われます。具体的には市民参加により、第1号の設置場所である高津幼稚園の屋上で、専門家の指導でソーラー発電パネルを実際に組み立て・設置します。八千代市民に限らず、多くの方のご参加をお待ちしています。
(3) やちよ未来発電所・オーナー参加の申し込みを開始
「みんなで創るやちよ未来市民発電所」(第1号)への参加は、実際のパネルのオーナーだけでなく、未来を担う子供達が手軽に参加できる「未来オーナー」を含め、募集を開始しています。オーナーには、タイムカプセル参加券、ソーラー工作キット、八千代台街づくりオリジナルTシャツなども用意しています。申し込みは、一般社団法人やちよ未来エネルギーのホームページで受け付けていますが、一部は(FAAVOによる)クラウドファンディングによっても申し込みを受け付けています。
なお、オーナー募集の詳細や、3月17日予定の「みんなで創る会」第2回目の案内については、一般社団法人やちよ未来エネルギーのホームページ(http://yachiyomirai.com/organization/)をご覧ください。
哺乳類研究者 香取市 濱中 修
キツネのたたり
前号でお話しした柳田国男のキツネの思い出には続きがあります。柳田がキツネを見た「その翌日、東隣の野沢藤四郎という主人が、突然発狂してその妻女を斬り殺し、さらに ・・・・・ という事件が起こったのである。この事件はキツネの穴を埋めたたたりであろうと、近所の人々がうわさするので、子ども心に恐怖心にとらわれた」(1)というのです。
昔の日本人は、キツネをいじめれば、たたりが返ってくると信じていました。反対に、キツネを助ければ、恩返しをしてくれるとも信じていました。
キツネの子別れ
歌舞伎や人形浄瑠璃の演目「葛の葉」は、キツネの恩返しと子別れの物語です。安部保名は、悪漢に襲われたキツネを助けるのですが、このときに傷を負って生死をさまよいます。キツネは、葛の葉という名前の姫に姿を変えて、保名を介抱します。やがて二人は結ばれ、童子丸という男子が産まれます。しかし、童子丸が5歳のとき、保名のもとに本当の葛の葉姫が現れて、キツネは童子丸を残して故郷に帰っていきます。童子丸は、後の安部清明です。
安倍晴明は、平成13年(2001年)にヒットした映画「陰陽師」の主人公です。この映画のテーマ曲を羽生弓弦選手は平昌オリンピックのフリープログラムに使用しました。その結果、安倍晴明という名前は日本中に広く知られることになりました。
キツネは、春に子どもを産み、愛情を注いで育てるのですが、夏の終わりころ、母ギツネは子ギツネたちを激しく追い立て、自分のなわばりの外に出してしまいます。これをキツネの子別れといいます。
昔は人里にもキツネがたくさん住んでいましたから、人々はキツネの子別れをよく知っていました。だから「葛の葉」のキツネも、子別れをさせられてしまうのです。
稲荷とキツネ
全国の稲荷神社の総本宮は、伏見稲荷大社です。伏見稲荷は、奈良時代の和銅4年(711年)の創建とされています。創建の物語から、秦氏が農業の振興を願って建てた神社であることが読みとれます。そこにキツネは登場しません。
秦氏は、大陸の文化を日本に伝えた帰化人の氏族です。太秦には、国宝の弥勒菩薩で知られる広隆寺がありますが、これを創建したのも秦氏です。秦氏が創った神社仏閣は、他にも京都市内にたくさんあります。秦氏は日本人の信仰のいしずえを築いた氏族といえます。
人々が稲荷の神様をキツネと考えるようになったのは、江戸時代以降のことのようです。
稲荷屋敷
成田市に小御門神社があります。明治15年(1882年)に藤原(花山院)師賢を祭って建てられた神社です。師賢は、後醍醐天皇の家臣で、鎌倉時代末期の激動の時代に生きた実在の人物です。
この神社は城址に造られました。だれの居城かはわかりませんが、師賢が生きていた時代には、確かに城がありました。「全国の古城址の公園となっているところには、たいていはどこかの隅に1つの稲荷社がある」(2)のですから、小御門神社創建前には、ここにも稲荷神社があったと思われます。
ここには狐塚もありました。今は師賢の墓とされている古墳です。古墳は、造られてからずっと後の時代の人々にとって、正体不明の盛り土でした。キツネは土が盛りあがっているところに巣穴を掘りますから、古墳は各地でキツネが造った狐塚に違いないとみなされるようになりました。
稲荷神社に狐塚という組み合わせによって、ここはいつしか稲荷屋敷とよばれるようになっていました。明治政府は「とうかやしき」という読みに「十日屋敷」という漢字を当てて、ここを師賢が没した地としました。師賢は下総の国に着いて十日後に病没したと伝えられていたからです。
千葉県は小御門神社の森を天然記念物に指定しています。創建から百年以上の年月が経って、小御門神社の境内には豊かな自然が形成されています。
【引用文献】
(1)柳田国男『故郷七十年』講談社学術文庫,2016年
(2)柳田国男『孤猿随筆』創元社,1939年
東京都江東区 中瀬 勝義
日 時:2019年2月25日(水)13:00~17:00
場 所:荒川下流現地、荒川下流事務所・アモアホール
1.自然再生事業実施予定地現地視察
国交省の「(川が本来有している生物の有効な生育環境に配慮し、あわせて美しい自然景観を保全、創出するという)多自然型川づくり」自然再生事業を視察した。
①小松川地区
千本桜公園前の高水敷を切り下げ、湿地創生を行い、ヨシ群落の大幅な増加が進んだ。低水敷にはシジミも生息している。
②足立三日月ワンド
多様な生物の生息環境の創出、ヨシ原の保全・再生のため、干潮時においても水面が維持されるワンド及び緩傾斜護岸整備工をしている。ワンド内の水位を維持するため下流側に角落しによる堰を設置した。
2.会議:アモアホール
今日の反省と足立三日月ワンド計画等について意見交換を行った。
・自然地の再生の目的は、ヨシ原、干潟の再生である。
・小松川自然地で環境学習を行っているが、ヨシ原が伸びすぎなので、適時草刈りを行って欲しい。
・地域の人々が遊びやすいように、意見を聞いて欲しい。自然地の中に池を作ってはどうか?
・木工沈床のモニタリングを行い、その有効性・無効性などの判りやすい報告を市民対象にお願いしたい。四ツ木橋下流左岸地区、扇大橋上流左岸地区、鹿浜橋下流左岸地区、川口河原町地区モニタリング
・各地区とも、ヨシ群落増加などが進み、全体として良い方向にある。今後とも、モニタリングを行い、適時調整を考えたい。
千葉県野鳥の会 市川市 蓮尾 純子
1967年4月11日に発足した「新浜を守る会」。1967年7・8月号の日本野鳥の会東京支部報に楡里ちゃんこと木藤(現;四宮)楡里さんが書かれた記事から一部を抜粋して引用(おなじみ 新浜を守る会から!)。
『「新浜を守る会」がどうなっているかって‥‥‥もう我々は「火事場のバカ力を発揮し、タンスの一つや二つは軽い」くらいのムリをしています。陳情書の提出に続いて、国会請願も加藤シヅエ、山本杉両女史の力で着々と進み、今では約七十通の請願書を出しています。今後も続けて出す予定です。又、六月二十三日には、加藤女史による議員質問がありました。
六月二十七日から街頭署名をはじめ、渋谷駅で第一声。午後四時から八時までの間に、全部で八百人の署名を集めることができました。今後、自由が丘、お茶の水、市川、国立、有楽町、千葉で街頭署名を続ける予定です。それでも一ヵ月程前、今後どうするか、という問題を話し合った時、だんだん話がシンコクになり、「私達は、ロケットに乗せられて、あてもないのに打ち上げられちゃったみたい。星しか見えない闇夜なのに、永久に飛び続けなければならないのかしら‥‥‥」といって、サメザメと泣いたオネエサンがいました。』
4月11日の発足後、19日には2回目の会合。たぶんこの時には陳情書の原案は固まっていて、間もなく提出したはず。東京支部報の5月か6月号には署名用紙と返信用の一番安いペラペラの封筒が挟み込まれました。松山資郎先生ご紹介の朝日新聞社の青木営治さんほかの方々をブレーンに、社会人の「小委員会」と学生の「執行部」は、目いっぱい動いていましたね。街頭署名等に続き、写真展も、絵葉書作成も。10月10日には一般の方々に呼びかけた新浜の大探鳥会もやっています。
東京支部報にはほぼ毎号「新浜を守る会より」という会報をはさみこむようになりました。このころは「ドロナワ根性」と「工場制手工業制度」が活動の基本。どろぼうが入ってから縄をなう、走り出してから考える、という状態が当たり前でした。資料やチラシなどを印刷したり、製本したり、といった手作業が次から次へと必要となります。「執行部」は週に何回も、夜はどこかの学生会館(これが「工場」)に集まって、作業や打合せをやっていました。いちばんよく行ったのは駒場東大(一般教養の1、2年生の校舎)の学生会館。陳情書等々の文章を作成したり、提出したり、議員さんにお願いしたり、といったことも、ほとんどが二十歳前の学生たちの手で。もちろん、舵取りや段取り、議員さんや上の方々への紹介など重要な部分は社会人の小委員会や鳥関係の先生方がやってくださったのですが、実務は私たち。これが「ロケットに乗せられて」涙、の現実です。
「三人娘」は「新浜を守る会」のいわば「看板」。10人前後の執行部グループですが、女子大生3人(誰も女子大に入ったわけではなかったけど)というのは新聞・テレビの受けがよく、呼びかけ人でもあるため、何かと表面に出されることに。街頭署名のころから、マスコミにもひんぱんに取り上げられるようになりました。国会請願は実際に効を奏し、行徳地区の各種開発事業のおおもと、3つあった土地区画整理組合のうち2つの事業認可一時差し止めという事態が起きました。ここで困ったのは地元の方々です。
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