ちば環境情報センター > ニュースレター目次>ニュースレター第265号
目 次
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君津市 御簾納 照雄
事業面積20.5ha⇒60.7ha 埋立面積8.8 ha⇒17.1ha 埋立容量200万㎥⇒421万㎥
東京ドーム13個分 同3.7個分 同3.4杯分
東京湾西部に位置する千葉、市原、袖ケ浦、木更津、君津、富津市民の水道水源である小櫃川の支流、御腹川(おはらがわ)源流域(君津市怒田字花立)に、日本最大級の管理型産業廃棄物処分場(汚泥、煤塵、燃え殻、木くず、溶融スラグなど埋立)が、地域住民の大きな反対にもかかわらず、千葉県知事によって2018年8月、増設許可され、工事が始まりました。小櫃川は県内だけを流れる川としては88㎞と一番長く、清澄山系から君津・木更津・袖ケ浦各市を流れ、再び木更津市で東京湾に注いでいます。小櫃川流域とその河口域に広がる東京湾唯一の大規模自然干潟・盤洲干潟は、環境省がラムサール条約登録候補地として選定しています。
6市の水道水は、その小櫃川河口からわずか約10kmの木更津市内で取水され、大寺浄水場から各市へ供給されています。市原・千葉方面へは県水として福増浄水場、柏井浄水場を経由して、1日6万トンが供給されています。市域により小櫃川の水が100%の地域やブレンドの地域もありますので、自分の使う水道水がどこから来ているか調べてみることをお勧めします。小櫃川の水道原水としての水質は水道3級、これ以下は工業用水であり、これ以上の水質悪化は許されません。
第Ⅰ期処分場・第Ⅱ期処分場の問題
御腹川源流域に第Ⅰ期処分場(事業面積16.9㌶、埋め立て容量107万㎥)が設置許可されたのは、2001年3月でした。地域住民、君津市、市議会が強く反対し、1995年には小櫃川流域3市に水道水源保護条例を県内で初めて制定しながら県行政に要請を続けましたが、かなわず許可されてしまいました。
2004年4月から搬入が始まり12年1月、汚染水が漏れ出し、高濃度の塩化物イオンが検出され、県が搬入停止を勧告し、現在も継続中です。そのなかで第Ⅱ期処分場(事業面積3.5㌶、埋め立て容量93万㎥)が10年3月設置変更許可され、13年1月から搬入が開始されました。この第Ⅱ期処分場は埋め立て期間10年として計画されているにもかからず、3年で5割を超える埋立が進められ、このことについて17年1月付、処分場増設についての意見として、君津市長は県に対し「事業者としての信用と第Ⅲ期計画の信頼性を著しく損ねるものである」また、汚染水が漏れ出したことにも触れ、「この問題が解決しない限り、今回の増設計画を受け入れることは困難である」と回答しています。
また、このⅠ期・Ⅱ期処分場には県水道局が、ちば野菊の里浄水場(松戸市)と柏井浄水場(千葉市)から出た放射性汚泥(最高濃度1㎏当たり5390ベクレル)1万2337トンを搬入していたことが新聞報道されました。県水道局浄水課は「処分場が水源地にあるとは知らなかった」とのことです。(2018.12.5毎日新聞)とてもひどい話です。
処分場より約2.3km下流から水田が広がり、北西方向6kmの久留里地域周辺には1000本以上の地下水が湧き出ており、環境省「平成の名水100選」としても知られています。
新井総合は、当初、処分場からもし有害物が漏れ出したとしても久留里地域の地下水の帯水層の10m下側を通過するので心配ない、と説明してきましたが、
環境影響評価委員会、千葉県廃棄物処理施設設置等審議会では専門委員から「表流水に放流したからと言って地下水に影響がないとは専門的見地からは言えない」「万一、処分場から漏洩が生じ、敷地外へ汚染が広がってしまった場合には久留里の自噴井戸の地下水が汚染される可能性も否定できない」との意見が出されていることがわかりました。
1995年:小櫃川流域3市(木更津・君津・袖ケ浦)水道水源保護条例制定
2001年:第Ⅰ期処分場 千葉県が設置許可
2004年:第Ⅰ期処分場 搬入開始
2010年:第Ⅱ期処分場 設置許可
2012年:第Ⅰ期処分場観測井から高濃度塩化物イオン検出(現在に至るまで搬入停止勧告継続中)
2018年8月:第Ⅲ期処分場設置許可(現在工事中)
2019年1月:行政訴訟提起(被告:千葉県)
3月:「ふるさとの水を守る会」結成総会
4月:第1回公判
6月:第2回公判
6月:建設操業禁止の仮処分申し立て(債務者:新井総合)
9月:第3回公判 20日(金)千葉地裁
12月:第4回公判 6日(金)千葉地裁
第Ⅲ期処分場 増設許可取り消しを求めて
農業者の水利組合7団体、御腹川と久留里地区の水を守る会(久留里地区20自治会)、ちば水源愛護会、小櫃川の水を守る会の10団体で「ふるさとの水を守る会」を結成し、最初に増設許可取り消しを求めての行政訴訟に原告152名で、また、建設操業禁止の仮処分申し立てには210名の申立人となりました。第1回、第2回の公判には地元から大型バス2台で千葉市中央公園に集合し、電車、車で来た皆さんと合流して裁判所までデモ行進しました。法廷には70名しか入れませんので抽選でした。抽選に漏れた方は隣の弁護士会館で学習会を持ちながらの待機、そのあと裁判報告会でした。今後も地元をはじめ、他地域での広報・学習会、水質調査活動など裁判に頼るだけでなく、様々な活動を進めています。繰り返しますが水源地に放射性汚泥をはじめ様々な有害物質の搬入など、あってはならないことが拡大しようとしています。これを何とか止めるためにも皆さんのご協力を切にお願いいたします。
気候ネットワーク東京事務所 桃井 貴子
2011年の東日本大震災後、脱原発依存の風潮が高まっていったことや、電力システム改革と電力自由化を背景として、日本各地で火力発電所の新規建設計画が相次いで浮上しました。東京湾岸では、千葉県市原市、袖ケ浦市、千葉市、そして神奈川県横須賀市と4ヶ所で大手エネルギー企業による大規模石炭火力発電所建設計画がありました。しかし、2015年にパリ協定が採択され、国際社会では気候変動の元凶である石炭火力からの脱却が潮流となり、千葉県内3ヶ所の計画も地元住民の反対運動の後押しがあって次々と中止となったことは皆さんもご承知のことと思います。一方、4つの計画の中でいまだ着々と進んでいるのが横須賀の計画です。
横須賀火力発電所計画は、他の3つの計画とは違う特徴があります。
建設予定地は、かつて石油火力発電所が稼働していました。それにより事業者は国の定めた「火力発電所リプレースに係る環境影響評価手法の合理化に関するガイドライン」を適用し、環境影響評価を「簡素化」「迅速化」して、手間を省いた手続きがとられた点です。4つの計画の中では最後に出てきた計画だったのにも関わらず環境影響評価はどこよりも早く準備書の手続きに入ってあっという間に確定通知が公表されています。
もう一つの特徴は、民間企業の事業でありながらも、国の方針が色濃く反映された事業であるという点です。事業主体は株式会社JERA(ジェラ)です。JERAは東京電力福島第一原子力発電所事故後に東京電力と中部電力の合弁会社として設立された会社で、国の肝いり企業です。企業合併にあたっても様々な税制優遇措置がはかられました。現在の東京電力ホールディングスの筆頭株主は54%のシェアを持つ原子力損害賠償・廃炉等支援機構で、事実上、国の管理下にあり、JERAに関しては、国が提言をまとめた「東電改革提言」でJERAの成功が東電改革の成功だとも言われる中で、この横須賀火力の計画が進められてきたのです。100%国の税金が投入されている日本政策投資銀行から融資を受けているという点でも国策としての位置づけが他よりも強いと言えるでしょう。
そこで今年5月、横須賀火力発電所建設計画の環境アセスメントで確定通知を出した国(経済産業省)を相手に、その取消を求める裁判が提訴されました。原告は、横須賀市民と風向きで被害を受ける可能性がある千葉県や神奈川県の住民の45人です。仙台の民事裁判、神戸の民事・行政裁判に続く国内4例目の石炭火力発電所建設計画に対する訴訟です。
事業者が石炭火力を作りやすいように制度が整えられているような状況下なので、厳しい裁判になることは間違いありません。今後、この裁判を住民に有利な形で続けていくために、裁判に多くの市民が傍聴し、裁判官にも市民の関心をアピールすることは極めて重要です。第一回期日は10月2日11時からとなりました。ぜひこの裁判のサポーター登録をして、裁判の傍聴にもご参加ください!
昨年6月から小口会計を引き受けて、1年が経ちました。あまりにも会計の仕事がわからないので、正直言って役に立っているとは思えませんが。総会資料の決算書は、以前役員だった佐々木典子さんがやってくださいました。引き続き、今後もご協力いただけるものと思います。私はとりあえず小口のお金を出し入れし、記録(入力)しています。
昨年度は、会員の皆様からの寄付が結構多く集まりました。携帯トイレのカンパだけでも13,000円以上でした。ありがとうございました。カレンダーを差し上げたら寄付してくださった方もいらっしゃいました。会費とともに寄付をしてくださった方やお身内の方からの寄付もありました。本当にありがとうございました。今後ともご支援ご協力を切にお願い申し上げます。
それにもかかわらず、この前の総会報告にあったように、昨年度は51万円以上の大幅な赤字になってしまいました。これは私どもがやりくりを失敗したためではありません!(笑)実は予算段階から、約50万円の赤字が見込まれていました。 今年度は、幸いなことにイオンから50万円の助成金をいただけることが決まっているので、辛うじて黒字の予算案を提示してあります。
しかし、毎年助成金が支給されるわけではなく、抜本的な会計の見直しが必要かと思います。事業規模が多岐にわたり、支出はこれ以上抑えようがないと思います。むしろ消費税の引き上げや農機具のメンテナンス費用もしくは買い替えなども考えたら、支出はますます増加すると思います。
会費や参加費の引き上げは、避けられないのではないかと私は思っています。さらに会員を増やすことや、企業からの寄付を受けることなども積極的に勧める必要があると思います。
総会では、会費を値上げしたら退会する人が続出するかもしれないという心配の声もあり、なかなか議論は進みませんでした。会員の皆様、率直なご意見をお聞かせください。また、企業からの寄付を受けるにはどのようにしたらよいのでしょうか。この先数年で何とかしないと、今までのような活動はできなくなってしまうでしょう。
千葉県野鳥の会 市川市 蓮尾 純子
新浜カウントグループ(現在は新浜倶楽部)の鳥のカウントは、1966年~1968年にほぼ毎週(3年間に114回)、江戸川放水路から江戸川にはさまれた一帯(ここを新浜―しんはま―と呼んでいた)で3コースに分かれて行われたものです。まとめられた調査報告書「新浜の鳥」のあとがきにもあるように、若手社会人を中心としたメンバーは、青春の3年間を新浜につぎ込み、しかも愛しぬいていた干潟や湿地がほとんどすべて埋め立てられ、乾燥した造成地に変貌したという時点で、それぞれの仕事を中心とした生活に戻って行った、ということになるでしょう。
1969年3月末に営団地下鉄(現在の東京メトロ)東西線が開通しました。都内から新浜へのアクセスはそれまでの2時間から一挙に半分ほどになりました。加えて、葛西や南砂町、原木中山といった新浜以外の東京湾奥部へも手軽に行けるようになったのです。
田久保晴孝、松田道生といった後の鳥界の重鎮がたが新浜通いをはじめられたのはこのころと思います。上田恵介、長谷川博、樋口広芳氏らも、それぞれの場所で頭角をあらわされていました。
1969年~1971年にかけて、これまで新浜でしか鳥を見てこなかった私たちを含め、千葉港から多摩川河口あたりまでの東京湾各所で鳥のカウントをやろうという動きがありました。この時の「東京湾カウント」のデータは、わが家の段ボール箱の中でまだ日の目を見ないままです。ともかく淡々とデータ入力だけはしなくては、というのが、大昔からの課題です。
東京湾カウントは、千葉港・(稲毛)・幕張・習志野(後に大蔵省水面=谷津干潟)・―船橋~市川沖~原木中山あたりは抜けていたと思う―・新浜・浦安・葛西・夢の島・13号埋立地・大井(後に東京港野鳥公園)・多摩川河口、で行なわれました。
当時のお仲間には、藤村仁、浦野栄一郎氏など、もう鬼籍に入られた方が何人もおられます。あと1年以内には、何が何でも着手だけはしよう、と決心しています。
東京湾カウントでは、私は新浜方面ではなく、葛西や夢の島方面に行きました。東西線の西葛西駅はまだできておらず、葛西駅で降りると、まず町なみをぬけて荒川を目指しました。堤防ぞいにぐるっと回って、また町なみから駅に戻りました。当時の町なみは行徳の旧道沿いにちょっと感じが似ていて、太い松の木がある大きなお屋敷にムクドリが巣を作っていました。
今の西葛西のあたりは当時はたぶん造成地で、ヒバリやタヒバリ、コチドリなどがよく見られました。荒川河口近くの干潟は江戸川放水路などに比べるとひどく汚れていて、泥などはまっ黒に見えるところもありました。堤防の内側は広大なアシ原や湿地、耕作放棄地で、このころは畑や水田などは見られなかったように思います。産業廃棄物の捨て場になっていて、化学薬品の臭気が漂うところもありました。天然ガスの採取が行なわれているところもありました。
河口方面(今の葛西鳥類園ができているあたり)は堤防がとても高くて、上を歩くのは少々勇気が必要でした。「海の家」の名残のような氷屋さんがありましたっけ。一度雷雨にあって、どこにも逃げ場がなく、きれいな稲妻を眺めながらひたすら雨に打たれていたけれど、家に帰るころにはあらかた乾いていたということも。
後に1年ほど、葛西の探鳥会を担当しました。当時の教え子さんでもう90歳を越えられた阿部昭三さんと、先日久しぶりに電話でお話ししました。小さいお嬢ちゃんが探鳥会のアイドルでしたね。
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