ちば環境情報センター > ニュースレター目次>ニュースレター第276号
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東京情報大学 環境情報研究室 原 慶太郎
新型コロナウイルスの感染拡大による影響は、経済・社会はじめ様々なところで現れていますが、政府が真っ先にとった政策が学校教育の閉鎖だったこともあり、その後も現在に至るまで、大勢の児童・生徒そして学生たちが自宅での学習を余儀なくされています。学習の遅れを気にする生徒や親からは、来年度の入学時期を9月にしてほしいという強い要望がだされ、それに呼応するように、これまで国際化などの観点から9月入学を主張していた議員や産業界の声も加わり、急に入学時期の変更を求める声がかまびすしくなってきているようです。
日本では官公庁や学校の年度がどうして4月から始まっているのでしょう。そして欧米の多くの国で学校の始業が9月なのはどうしてなのでしょう。かれこれ20数年前になりますが、私と家族の英国での経験をもとに考えてみたいと思います。
1996年9月から1997年8月までの1年間、妻と当時小学校5年生の長女、そして幼稚園年中組だった長男の一家4人で、英国の東部ケント州のアシュフォードという町に滞在しました。近くのワイという小さな村にあったロンドン大学のワイカレッジでカントリーサイド(田園景観)の保全管理の研究をするためでした。様々な手続きを済ませ、車を購入して大学までの30分ほどの通勤が始まりました。車窓からみえる景色は、小麦の収穫を終え、次の種まきのために畑が耕されていました。日本よりはるか高緯度にある英国では、10月になると日が短くなりますが、9月に播種された冬小麦が芽生え、茶色一色だった景色が濃い緑色に変わります。春になると麦類の緑色に交じって菜の花の黄色がモザイク状に広がり、やがて、麦類の穂がでてきて、6、7月頃に畑は淡い茶色に変わり収穫時期を迎えます。いわゆる麦秋です。麦類や牧草の収穫が終わり、8月には、畑に刈り取られた牧草が大きな束になって置かれ、1年のサイクルが終わります。この農作業のサイクルは、北半球の温帯の麦類を栽培しているところでは、多少の違いはあってもほぼ同じようです。
一方の、モンスーンアジアの米を主食とする日本では、春が訪れ、4月頃から水田の耕作が始まり、梅雨の頃に合わせて田植え、9月から10月にかけて収穫が行われ、稲作の1年のサイクルが終わります。私は、英国に1年間滞在し、毎日、車で畑や牧草地の中を通勤し、農村の中にある大学の研究室の窓から広がる景色を眺めながら、なるほど英国での学校の始業が9月で、日本の始業が4月なのは、前者が麦類の栽培を、後者が米の栽培を基本とした農事暦に合わせているためだと、一人で納得したものでした。農業をめぐる事情は両国で異なり、産業を支える大きな枠組は変わりつつありますが、国土の景観や社会構造の骨格となる年度のサイクルは、長い年月かけてできあがった、その国の大切なものがつまっている、ように思えてきます。
そもそも、近年、9月入学が論じられる背景となったのは、学校教育、とくに大学教育の国際化の波のなかで、先進諸国の多くが9月入学の学事暦であるのに対し、日本もその暦に合わせようということが大きかったように思います。大学では、ここ10年ほど様々な改革が進められてきました(このことの是非の論議は他の機会に譲ることにします)。すでに秋入学・卒業も可能なようなカリキュラム構成になっており、とくに海外からの留学生が多く学ぶ大学では、セメスター制などそのための様々な制度も揃いつつあります。
会計年度と学校教育の年度を同期させるのか否かという議論も必要です。わが国では、学校の教育現場の教員と、地方自治体の教育部門の職員との人事交流が進み、年度に合わせた異動は恒例となっています。この他、高校や大学を卒業した先にある就職活動との関係も考えないといけません。様々な要素を整理し、事の是非を総合的に検討して、この議論を進めたいものです。(2020年5月29日脱稿)
(補遺)この原稿は5月末日の時点で書き上げたものです。その後、新型コロナウイルスの全国的な感染は一旦収まり、大学を除く学校では対面授業が再開されました。9月入学に関しては、教育学の研究者や現場の教員から来年度からの実施は大きな混乱を招くとの意見がだされ、政府も時間をかけて検討する、と方針を転換しましたが、引き続き、注視していかなければと思います。
市川緑の市民フォーラム事務局長 佐野 郷美
今、千葉県立博物館が大きく様変わりしようとしています。その中でも特に、千葉県の自然誌を中心に展示、研究している中央博物館が自然誌系から歴史・考古系に変わろうとしています。
私たち市川緑の市民フォーラムは、「市川の自然・歴史・文化・民俗について学び、これからの市川市のまちづくりにそれらを生かす」ことを活動の大きな目標としています。ですから、すでに活動を始めて30年以上になりますが、常に毎年の活動方針に、自然はもとより歴史・文化・民俗に関連する活動を掲げてきました。
2018年度から取り組んでいる「国府台球場地下に眠る下総国府政庁跡の埋蔵文化財調査」に関する取り組みも、そして、これから行動を起こそうとしている「市内のクロマツの樹皮に残る、戦時中に軍からの指示で松根油を採取した傷跡を、戦争遺構の一つとして残す」ために市川市に働きかけようとしていることも、当フォーラムが歴史・文化を大切にしているからです。
ですから、当フォーラムは自然・自然誌系に偏った市民の会ではないのですが、今千葉県が進めようとしている千葉県立博物館の在り方を大きく変えようとする提案には疑問を感じざるを得ません。
その提案は「今後の在り方(案)」としてつい先日までパブリック・コメントにかかっていました。そして、そこには「中央博物館の機能強化」を謳いながらも、4つの県立博物館を移譲・廃館させるとともに、人文系の人員と資料を中央博物館に集約するというもので、全国的にも高い評価を得ている中央博物館の自然・自然誌分野については全く何も触れていないのです。中央博物館のこれまでの自然・自然誌系の功績を正当に評価することのないままに、一方的に人文系の人員と資料を中央博物館に集約するとすれば、自然・自然誌分野の学芸員が減らされ、それとともに自然誌系の展示スペース、研究室、収蔵スペースとそれらを賄うための予算等が全て縮小されてしまうのではないかと、とても心配です。
実は、県内には市町村立も含めて歴史系博物館が67館あり、自然誌系も含めた全博物館数に占める割合は56%で、全国平均の36%を遙かに超えています。その中には、佐倉市の国立歴史民俗博物館、県立博物館「房総のむら」、さらに千葉市の世界的な考古歴史の博物館を目指す「新・加曽利貝塚博物館」計画など、充実した歴史・考古系博物館が多いのです。その一方で、自然誌系の博物館が少ないのが実態です。
もともと中央博物館は創立当時から「自然誌を中心とし歴史も加えた博物館」を目指していましたから、名称を「千葉県立自然誌博物館」とする話もあったのです。
地球温暖化、生物多様性の劣化、自然災害の増大、新型コロナをはじめとする新たな脅威となる新生物の登場(これらはそれぞれ独立した事象ではなく、それぞれが複雑に関連した事象であるととらえるべきですが)など、自然誌系の問題が山積する現代において、学校教育を補強する施設として、そして社会教育・生涯教育の場としての自然誌系博物館のニーズはますます高まっていると考えてよいのではないでしょうか。
そういった意味で、当フォーラムを含め県内14の団体の連名で、千葉県立中央博物館がこれまでと同様に「自然誌を中心とし歴史も加えた博物館」として存続できるよう千葉県文化財課に求めました。
そしてこの問題については、広く県民に知ってもらうために、わかりやすいパンフレットの作成と配布、マスコミへの働きかけなどを今後より多くの市民の会と個人の協力で行っていく予定です。
(くれぐれも歴史・考古分野を軽んじているわけではないことを申し添えます。この小文は、市川緑の市民フォーラム会報「みどりのふぉーらむ」2020年8月号の巻頭言「でいっだらぼっち」に図と写真を加えたものです。)
新運営委員 千葉市中央区 新井 桂二
はじめまして。この3月に定年退職し、現在は市立稲毛高校の非常勤講師をしております。
環境省の野生動植物種保存推進委員やレッドリストのお手伝いをさせていただいております。
虫少年から魚青年を経て生物教師になってしまいましたが、退職してからが勝負と調査に心躍らせていたのですが、新型コロナの影響でなかなか自由がきかない今日この頃です。
米作りや野鳥観察など、初心者として皆様のお手伝いが出来れば幸いです。
老老介護の身ではありますが、極力時間を作って参加させていただきますので、以後よろしくお願いします。
新浜の話30 ~旧館から新館へ~千葉県野鳥の会 市川市 蓮尾 純子13坪ちょっとの旧観察舎。まわりは大草原となった住宅造成地。庭にはいただいたチャボやハシボソガラスのカンちゃんが放し飼い。迷い込んできた飼犬のユー、後には妊娠中のカムが加わり、子犬が8匹もうまれて、動物好きの小学生たちが毎日遊びにくるようになりました。オープンの翌月、1976年2月からは、黒板に貼った模造紙1枚に観察された鳥を毎日記入するようにしました。熱心な子たちはすぐに鳥の種類の見分け方を覚え、見られた鳥を記録するのを楽しみにしていました。 この「観察舎から見られた鳥」の一覧は、1976年2月から2018年までの43年間欠かさずに続けられ、以後は観察舎の日誌といっしょに直接パソコンに入力されています。原本は何しろ模造紙ですから、出して記録を見るのはとても厄介。2015年ごろからようやく一覧表のエクセル入力をはじめ、半分を少しこえるところまでこぎつけました。根気とスペースが必要ながら、まあ、あと2.3年のうちには終わるつもりです。行徳保護区に限られたものですし、毎日という少々細かすぎる記録ですが、いずれ役に立つこともあるでしょう。 主人と(たいていは)私のどちらかは家に残って息子の世話と、利用される方々のお相手。自宅から足音が聞こえると2階の観察室へ。開館後2度目の冬、スズガモが来るころになると、雨でもないかぎり、観察室は人が途切れなくなりました。日曜など、80人以上で大混雑ということも。 1976年は、前年末から姿を見せ、5月以降は毎日のように出現してくれたクロツラヘラサギの若鳥がスターでした。おしゃもじのような奇妙な嘴を半開きにして、まるで草津温泉の湯かき歌よろしく、8の字に水をかきまわし、嘴に触れた魚を巧みにとる姿。おしゃもじで魚を捕るなど不可能に思えるのですけれど、一撃必殺の白鷺類よりもむしろ効率よく捕えていましたね。この年の暮、別種のヘラサギ2羽が相次いで定着し、3羽が連れ立って餌をあさるユーモラスな姿をみせてくれた時期もあります。1977年1月にヘラサギのうち1羽が電線に衝突して死亡するという悲しい事故があり、残された2羽はばらばらに行動するようになってしまいました。 1977年4月、締め切ったままだった千鳥水門を開放しました。低い堤を築いて淡水に保っていたうらぎく湿地は、あっけなく海水の入江と化しました。この年の秋から裏の大草原(現在の福栄4丁目かもめ自治会)に家が建ちはじめました。すぐ裏の一角を公園にしてほしい、3ヶ所の公園用地のどれか1つと交換するような形でも、という願いは実現しませんでしたが、代わりに、手狭になった観察舎を建て替えるという話が1978年に本決まりとなり、1979年に工事が始まりました。 【発送のご協力について】ニュースレター2020年9月号(第277号)の発送は9月7日(月)10時から千葉市民活動支援センター会議室(千葉市中央区中央2-5-1 千葉中央ツインビル2号館9階)にておこないます。発送のお手伝いをしてくださる方を募集しています。よろしくお願い致します。 |