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千葉市の遺跡を歩く会 千葉市若葉区 山口 義晴
都川は、千葉市誉田町を水源として、東金街道に沿って流れ、坂月川及び仁戸名川(支川都川)ほか30数本の小川の水を集め、千葉県庁の北を経て東京湾に流れます。北総台地の南端に形成されている谷地の湧水を集めて流れる川です。
縄文時代は1万数千年前に始まり、2,500年前頃まで続きました。1万年以上、1つの文化が続いたのです。文化が環境に適応したものであり、人間の生活が平和であったことを示しています。縄文時代中期〜後期(5,000〜3,000年前)の都川流域は、日本人にとって最高の環境であり、貝塚や集落など多くの遺跡を残しました。千葉市の縄文時代の遺跡密度は日本一です。
都川の北に広がる北総台地には豊な森が存在し、クリなどの堅果類やイモ類、山菜類を採取できました。また、シカやイノシシが生育するのに適した環境であり、よい狩猟の場でした。湧水が豊富にあり、縄文人の生活の水となりました。縄文人は、ドングリなどのアクの強い堅果類を晒してアク抜きをして食べる技術を持っていました。それらの技術によって、食物のメニューが増え、飢えを経験することが少なくなったのです。
谷地に湧水があることは、谷地で地表に現れる地層に水を透過しない粘土層があることを意味しています。北総台地の地層の下部には、常総粘土層と呼ばれる厚く、広範囲に分布する粘土層が存在します。都川流域に住む縄文人はこの粘土を使用して土器を作りました。縄文式土器です。土器で"煮炊き"ができるようになったことにより、利用できる食材が増え、料理のメニューが増えました。現在の家庭料理より多くの種類のスープを毎日楽しんでいたのかもしれません。千葉に住む縄文人はバランスのいい食事を摂っています。縄文人の骨髄コラーゲンの炭素及び窒素安定同位体測定から、植物、動物、魚介類を1/3ずつ食べていたことが判っています。都川流域に多くの貝塚があると言っても、貝だけを食べていたのではありません。
縄文時代に都川は小舟が行き交う重要な交通路でもありました。都川流域の舌状台地には多くの貝塚が存在します。縄文時代は暖かく、台地の下まで海が広がってきていて、坂を下った所で魚介類を採取していたと思われている方もおられるでしょうが、違います。確かに、6,500年前頃には気温が現在より2〜3℃高い時期があり海が北総台地の近くまで広がっていた時期があります。しかし、大型貝塚が作られたのは5,000〜3,000年前であり、気温は現在とほぼ同じで、都川流域の波打ち際は県庁付近にありました。加曽利貝塚から川を下ると海まで9km近くあります。都川流域にある貝塚で最も内陸にあるのは誉田高田貝塚です。海まで約15kmあります。航海術に長けた縄文人は、丸木舟で都川を行き来して海産物を採取し、食べました。ある時は、舟で市川か大森辺りにあったヤジリなどの石器のマーケットに行ったかもしれません。ある時は神津島まで行って、石器の原石を持ってきたかもしれません。逆に、商人が舟で都川流域のムラに石器を売りに来たかもしれません(都川流域には石器の原料となる岩石は産出されません)。ある時は館山辺りに行って、イモ貝のようなきれいな貝を採取して、腕輪にしたかもしれません。そのような交通路になったのが都川です。丸木舟は長さ数m、幅80cm位の舟です。現在のカヌーより少し大きい舟です。都川や仁戸名川で、異なったムラの舟が行き違うこともあったと思います。舟がすれ違う時に、いろいろな情報交換があったと思います。例えば、クジラが浜に打ち上げられたという情報が流れると、いくつかのムラの人がクジラの解体に行き、肉を持ち帰ります。1頭を1つのムラが独占するのではなくいくつかのムラで分けていたようです。
都川は、その水源となる湧水が縄文人の食生活に利用されただけでなく、流域の粘土層が縄文式土器の原料とされ、食材や道具や装飾品を運搬するための交通路として使用され、情報交換の場でもありました。その結果、縄文時代の都川流域に文化/文明を発展させました。都川の水質を向上させ、人々が川に接することができる環境を作りたいものです。次世代、次々世代のために。
千葉市稲毛区 平田 和博
旅行の楽しみのひとつに食事がある。豪華絢爛なご馳走よりも、土地の味がする郷土料理がいい。こじんまりした店を見つけると、なんとなく旅に来たのだと感じる。万国共通なのだろう、どこへ行っても、屋台やそれに近い店の料理はおいしい。でも、胃腸を鍛えていない日本人には要注意である。
「この店、おいしいですよ」
一瞬、私は入るのをためらった。野菜や骨など、食べかすが床に散らかっているのだ。太めのおじさんがしゃぶった鳥の骨をポイッと捨てるし、チイチイパッパとおしゃべりしながら若い女性が小骨をペッペッと吐き出す。高級レストラン以外では、台湾の店は床が汚れているほうが繁盛している、と言われている。たしかに一理あるが、汚いことだ。それでも、入った鴨料理店は地元の人が勧めるだけあって、結構おいしかった。郷に入れば郷に従えっとばかり、みんなの真似をして、食べたあと骨をポイッと捨てた。すると、どこからともなく犬がきて、食べた。食の循環だな、と感心した。
また、大衆食堂のおかゆがいい。特に、はまぐりのおかゆがおいしかった。ホテルの朝食より安くておいしい。ビニ−ル袋に入れて持ち帰る人が結構いる。家で料理しないようだ。一人前200円前後で安いと思ったら、もっと安い店もあった。安い店のはまぐりは汚染されている地域のものだ、と聞かされた。台湾も環境汚染が進行しているのに、20年前の日本と同じように人々はあまり関心を示さないようだ。気になることだ。
千葉市稲毛区 志自岐 百々代
私の中の百姓の血が騒ぎ、9月15日下大和田谷津の稲刈りに出かけた。六十年ぶりの稲刈りである。稲刈りに集いし四十人の前「ようこそ」と案山子がおじぎをしたり
平田さんの甚平かかしが台風に少し傾き睨みを利かす
どろんこの幼等が運び来る稲を老が束ねる塩辛とんぼ
男(お)の子等はざりがにを取り女(め)の子等は稲運びする、昔も今も
四街道のどろんこ祭りのにぎやかさ谷津田フォーラム今日の稲刈り
編集後記:4月28日の田おこしに始まった米づくりも、9月24日に脱穀を終え、3畝ちょっとの田んぼから2俵と14sの谷津田米を収穫する事ができました。10月14日の収穫祭が楽しみです。mud-skipper