ちば環境情報センター > ニュースレター目次 > ニュースレター第121号
目 次
|
山武郡大網白里町 武井 實
私の故郷は山梨県都留市ですが、天気予報は富士五湖地方に含まれる地域です。数えてみると60年も前のことですが、子供の頃、近くの川原で遊んでいて夕方になると、あたり一面に月見草(オオマツヨイグサ)が咲き乱れ、夏の夕暮れの川原全体が急に明るくなったのを今もなおはっきりと思い浮かべることができます。
高校生の頃、作家の太宰治(だざい おさむ)が「富士には月見草がよく似合う」と記されているのを見て、その頃に植物図鑑で、太宰の月見草はオオマツヨイグサ(黄色い花)のことで、本当の月見草(白い花)とは異なることを知った次第です。私も当時はオオマツヨイグサを地域の呼称である月見草と呼んでいたのですが、60年前のその月見草は、花弁の直径が15〜20pくらいの大きさで、子供の顔ほどの大きさでした。その花弁をむしり取って、頭の上に帽子のようにかぶり、落とさないように逃げ回る鬼ごっこをして暗くなるまで遊んだものです。まだ、戦後の貧しかった時代のことで、子供らによる手作りの藁草履を履いていた時代が懐かしく蘇ります。ついでながら、月見草の円錐状の長さ10pほどの縣が開花するときの声(花弁が開く際の音ですが、人が小声でささやくように感じた)は、今も耳元に鮮明に焼き付いています。
後年(昭和40年頃)、帰省の折に、川原で見た月見草は、千葉の九十九里一帯に咲くマツヨイグサと同じく花弁が極めて貧弱に見えて、井村さんがご指摘(後述)の山中湖周辺の月見草の感じと同様に、花弁が小さくなっており、驚かされたものです。
ところで今年も間もなく、大網周辺のマツヨイグサは咲き始めますが、農道沿いの草刈りの跡に、マツヨイグサだけを刈り残しておいて下さる心ある農家の方がいて、心地よく散歩が楽しめます。
次にカメのことですが、私の家は、南白亀(なばき)川のすぐ近くで、池の排水は南白亀川につながります。
かつて、池にミドリガメの子供を三匹入れたところ、カメたちは飼い主の気持を理解しないままに南白亀川へ逃げ込んでしまいました。メーリングリストの吉岡さん(後述)に知られたら大目玉を食らうところでした。動植物を栽培飼育する者は生態系の問題にまで留意して、責任ある態度で、心してかからねばなりませんね。後日、近所の人の話では、南白亀川にはミドリガメをはじめ、数種の大きなカメが沢山生息しているとのこと。生物多様性を口にする者が、このような失態を演じているのでは先が思いやられると反省することしきりです。
以上の文章が出来た動機は、ちば生物多様性県民会議メーリングリスト7月15日付の吉岡啓子さんのアカミミガメやセイヨウタンポポのお話。これに応答された井村弘子さんの40年前の山中湖の月見草のお話などに触発されてのことでした。井村さんがご指摘の月見草は白い花を咲かせる本当の月見草か、俗称の月見草(オオマツヨイグサ)か、定かではありませんが、いずれも、夏の夕刻6時頃になると一斉に咲き始めます。月見草の群生地では辺り一面が白い布で覆い被されたように変化します。また、オオマツヨイグサが繁茂した川原では、全面が黄色に一変し、暗くなりかけた水面に金粉でもまき散らしたかのように金色に映え輝くその光景は、私の脳裏に原体験としてしっかりと刻み込まれているのです。
ですから後年、北海道の富良野で薄紫一色に染った雄大なラベンダー畑の起伏に富んだ農道をドライブしてみても、あるいは米国カリフォルニアの広大な向日葵(ヒマワリ)畑に足を踏み入れてみても、いずれも、その感動は私の月見草の原体験には及ばないのです。
生物多様性メーリングリストの仲間達は、私にこのような感激を与えてくれたばかりでなく、60年前の私に連れ戻して下さったのです。心の底から感謝申し上げたい。仮定上のことは言いたくないが、もし私がパソコンでメールを利用していなかったら、この文章の全てが存在しないし、当然のこと、若返りの気分も味わえなかったし、元気さも回復できなかったことでしょう。
(住民と行政の協働による大網白里まちづくり推進懇談会会長)
(写真提供:田中正彦)
山武郡大網白里町 平沼 勝男
2007年6月3日、千葉市緑区下大和田でCEICと千葉県生物学会による共同観察会が行なわれました。参加者26名、そのうち小学生7名。千葉県生物学会の先生方は、クモ類;浅間茂さん、民俗学;川名興さん、シダ類・イネ類;谷城勝弘さん、鳥類;唐沢孝一さん・越川重治さん(CEIC)、魚類;田中正彦さん(CEIC)の豪華メンバーでした。
午前中は浅間さんを中心に谷津田のクモを調べました。全員で谷津田を散策しながらクモを採集します。このとき特に小学生が採集に活躍してくれました。採集したクモは浅間さんのもとに集められ、浅間さんが片っ端から種の同定をしていきます。草原、林縁、森林の中、田の周辺など、場所の違いがクモの種類を分けていることが良くわかりました。我々が確認できたクモは12科38種に及びました。それにしても同定する浅間さんの力量はすさまじく、専門家の凄さをまざまざと見ました。
午後は民俗学の川名さんのお話を森の中で伺いました。特に川名さんのご幼少時代の実体験であるクモ遊びのお話は、クモを捕まえるアクションもまじえる迫力もので、我々を夢中にさせてくれました。午前中の観察でもたくさん見られたハエトリグモ(ネコハエトリ)が当時の子供や大人が夢中になって興じたクモ合戦の主役でした。当時の人々がクモを捕獲し、育て、戦わす様は、ただ昔は今と違って娯楽が少ないからといった単純な話ではなく、自然を利用し、工夫を凝らし、優劣を競い合う遊びであり(ギャンブルの一面もあったといいます)、今の娯楽とはまったく類の異なる立派な文化だった事がわかりました。しかしその文化は現在失われつつある。
このたびの共同観察会では、とても貴重な体験をさせていただきました。そして、あらためて下大和田の自然の豊かさを感じました。しかし同時に私が知っている事はほんの一握りに過ぎないという事も感じました。やはり下大和田の自然、この谷津田は後世に残さなければなりません。
千葉市稲毛区 石橋 紘吉
2007年6月3日、下大和田でクモの観察会が開かれ、日頃余り気にも留めなかったクモの種類や生態を教えてもらい、千葉に伝わるクモ合戦の話しを聞いてちょっと子供の頃を思い出した。
クモと言えば自分にとってはコガネグモである。
夏になればコガネグモを求めてよく遊びにゆく土手の竹林(女竹)に行き数十匹のクモ捕まえては庭木に放ち,巣を張らせては、このクモの糸をセミ取りに利用した。時にはすでに張っている巣に別のクモを放して喧嘩をさせたりした。時々セミやコガネムシを巣に引っ掛けては餌を与え、巣に餌が引っかかると素早い動きで飛び掛りグルグル巻きにする。
そんな光景を毎日のように飽きもせず眺めていたものである。今でも実家に帰れば庭木にはクモの巣だらけで、自分が放ったクモの子孫が生き残っているのかな?張り巡らされてるクモの巣の間を、クロアゲハやアオスジアゲハがクモの巣に引っかかる事無く上手に飛び回り、アゲハには何かクモの巣を感じ取る能力があるのでは感心しながら眺める。
クモを飼う目的はクモの巣をセミ採りに利用するためである。まず、針金で輪を作り竹の先に取り付け、クモの巣をこの輪に巻きつければ出来上がり。この道具を使いセミをクモ糸のねばりを利用して捕まえるのである。クモの糸はセミの羽にべったりとつかず羽を痛めず重宝なものであるがクマゼミなどの大型のセミを捕まえるのは難しかった。
コガネグモの他に大型のオニグモの巣も利用したが、オニグモは飼う対象ではなかった。
セミを捕まえるのはこの他に蝿取り用の粘々を竹の先に付けて取ることもあったが、一端粘々がくっつくとこの粘々を取ることが出来ずやっかいであった。
セミは成虫を取るよりも穴セミ(こう呼ぶ方が実感がある)を取るほうが面白いのである。早朝5時前に穴セミが出そうな神社の境内の楠木の回りや、近所の垣根のある庭などが穴ゼミのいる所であった。子供なりにセミの出るところを感じ取っていたものである。地面に5oくらいの穴があればまだ地面の中に居て穴を大きくして取り出した。この穴ゼミを持ち帰ってじっと羽化を待ち成虫になるのを見ながら、一夏に数十匹も羽化させたものである。
わが故郷ではセミはその鳴き声で「チイチイゼミ」・「カナカナゼミ」・「ワシワシゼミ」などと呼び,何となく風情があった。
クモもコガネグモをジョロウクモと間違って呼んでいたものである。
田起こしをしていると水上を上手に走り回りクモが数種類いる。残念ながら自分はその名前は知らない。捕まえようとしても素早い動きでなかなか捕まえられない。
初夏のクモ 思い思いに 網を張り
初夏の候 クモの観察 にぎやかに
ただ一点 クモに目が行く 子供かな
新米主婦のえこ日誌@
山武郡大網白里町 中村 真紀 |
発送お手伝いのお願いニュースレター9月号(第122号)の発送を9月7日(金)10時から 事務所にておこないます。 |
編集後記: 下大和田は今、夏の虫たちでいっぱいです。クヌギレストランは連日カブトムシやノコギリクワガタ,オオスズメバチで大にぎわい。稲穂の間にはアジアイトトンボやオオイトトンボが舞っています。メダカやタモロコも梅雨明けのぎらぎらした日差しを背に小川に姿を見せています。命輝く夏の到来です。 mud-skipper